冠の秋の訪れ

八月十九日(金曜日)、夜明けの空は夏空から、秋空の色合いを深めている。天高く、胸の透く青空である。起き立てのわが気分は、いっぺんに陰から陽へ変わった。薬剤などまったく用無しの自然界の恵みである。無色の朝日は大空を青く染めて、家並みの白壁をいっそう白く際立たせている。雨風まったくなく、山の木の葉は眠ったままである。しばし視界を眺めながら、私は難聴の両耳に集音機を嵌めてみた。山に、早起き鳥が鳴いている。寝起きの私は、自然界の恵みにおんぶにだっこである。人の世には世であっても、暗雲が垂れ込めている。真綿に首を締められるという表現がある。さらには、八方塞がりという表現もある。現下の日本社会は、なんだかこれらの表現を用いたくなる。その証しは、果てしなく続くマスク姿である。私自身嵌めても、あるいは人様のマスク姿を見ても、もはや飽き飽き気分旺盛で、うんざりである。確かに、戦雲下よりましではある。しかしながら、気分が晴れないことにおいては、小さな同類項と言えそうである。本マスク姿は、本当に果てしなく続くのであろうか。だとしたら挙句、わが亡骸はマスク姿で、棺桶に横たわるのであろうか。知らぬが仏とはいえ、ぞっとせずにはおれない。ネタなく、休むよりましかな? こんな気分で書いた、なさけない文章である。この気分を慰めているのは、様々な「冠(かんむり)の秋の訪れ」である。絵には書けない、夜明けの秋空のさわやかさである。加えて、先ほどより勢いを増している鳥の鳴き声は、わが身をとことん癒してくれる無償のBGMである。せっかくの「冠の秋」、ふわふわの真綿に首を締められて、死にたくはない。