相身互い身、慰め合って連日の通院

八月九日(火曜日)。きのうに続いて連日、妻を引率の通院が予定されている。きょうの通院は、半年前の予約表にしたがって、「大船中央病院」(鎌倉市)への早出となる。きのうの通院は、住宅地内の最寄りのS医院であり、気分的には落ち着いていた。ところがきょうは、気分落ち着かず、逸っている。もちろんそれは、きのうに比べて大ごとだからである。きょうの通院目的は、妻の骨折・救急車・手術・入院・そして退院後の経過観察日のためである。なお具体的には骨量検査と、それを基にして主治医による診察と診断が予定されている。経過良好の診立てにありつきたいものである。妻はもとより、引率者のたっての願いである。この日が済めば今月末には、私はすでに済んでいるけれど、妻の四度目のコロナワクチン接種への引率がある。わが身だけの生活では済まされない、妻共々の老夫婦の日常生活のありようである。夫婦生活とは、共に安寧でなければ成り立たない。これは「言うは易く行うは難し」であり、文字どおりきわめて難事である。学び舎の運動会の競技の一つには、「二人三脚」があった。この競技には、必ず転ぶ組がある。それゆえ二人三脚は、面白い競技として、どこかしこの運動会の定番競技として定着している。しかしながら、晩年の老夫婦の二人三脚は、絶えず転んでばかりで、ちっとも面白くない。こんな身も蓋もないことを書いて、尻切れトンボのまま間に結文とする。弁解の理由は、妻を手伝って通院準備に取り掛かる、時間の訪れにある。夜明けの空は夏空であり、おそらく時間を追って猛暑日(気温三十五度以上)へ向かうだろう。ところが、きょうにかぎれば暑さは、まったく気にならない。とことん気になるのは、妻の検査結果とそれによる主治医の診立てである。私がこけたら、妻の引率はあてにできない。今や老夫婦の日常生活は片肺飛行、すなわち相身互い身寄り添って、慰め合うしか生存の手立てはない。こんな文章では、表題のつけようはない。心、せかせかと逸っている。