子どもの頃の夏の思い出

八月二日(火曜日)、日中は猛烈に暑く、朝夕は涼しい、本格的な夏の訪れにある。起き出してきて、涼しい夜明けに身を置いている。そして、童心に返り、「子どもの頃の夏の思い出」をランダムに浮かべている。総じて、楽しい思い出を育んだのは「夏休み」だった。午前中は『夏休みの友』と、漢字の書き取りなどの宿題をした。宿題を終えると、わが家の裏を流れている「内田川」へ、猿股パンツを穿いていや多くはムチンで、跳んで行った。内田川にまつわる思い出は尽きない。水浴び、魚突き、箱メガネ、大きな岩に腹ばいになっての甲羅干し。ひりひり焼けると、すばやく水中に飛び込んだ。水浴びが長くなると、ブルブルグル震えて、唇は紫色になった。いたたまれず、岩を抱いて甲羅干しをした。こんなことを繰り返して、内田川と郷愁の双璧を成す「相良山」に太陽が沈む頃まで、私はほぼ毎日、川遊びに耽っていた。ゴロゴロさん(雷)が鳴り、入道雲がムクムクと沸いて、夕立が来そうになると怖くなり、わが家へトンボ帰った。母が「茶上がり(三時のおやつ)だよ!」と言って呼びに来ると、一時中断してわが家へ帰り、毎度毎度、ソーメンと西瓜を食べた。西瓜腹になると、再び内田川へ走った。さてそれらのほか、思い出のランダムの羅列はこれらである。まずは、アイスキャンデー売りとそれを追っかける、「待って、くださあーい…」の掛け声である。手には汗ばんだ一個の銭が握りしめられていた。蚊帳釣り、線香花火、蝉取り(多くはアブラゼミ)、しょんべんをひっかけられて、取り逃がすこともあった。ときには里山へ入り、ハサンムシ(クワガタ)を捕った。わざとハサミに指先を入れると、痛くて血が滲み出た。西瓜を食べるときには、丸出しのお腹に涎れと汁がコラボを演じて、ポタポタと垂れた。ソーメンの汁は、明けても暮れても生醤油の中に砂糖が入っていた。私は食べ飽きた。ところが父はソーメンが大好きで、馬がバケツ一杯を啜るように、スルスルと何杯も食べていた。私は食べ飽きたせいで、好きになれなかった。このことは現在まで尾を引き、麺類はこの世になくても構わない。上半身裸暮らしが多くて、浴衣の思いではない。夏祭りのときの思い出は、ラムネ、ニッキ水、かき氷、綿菓子である。父は短い昼寝を常習にしていたけれど、私は昼寝なく内田川で遊んでいた。生誕地・熊本(当時、鹿本郡内田村)は、炎天すなわち暑すぎる夏だった。わが家の涼(りょう)の取り入れは、内田川の川風と商店名の入ったウチワ(団扇)だけだった。それでも不満なく、弱音を吐いた記憶はなく、今朝は楽しい思い出ばかりが噴出している。わが人生出だしの頃の、尽きない思い出である。そしてそれらは、わが夏好きの根幹をなしている。惜しむらくは内田川が遠のいて、思い出は少しずつ色褪(あ)せて、つれてわが人生には「後がない!」。しかしながらありがたいことには、薬剤に頼らくとも「子どもの頃の夏の思い出」は、わが生存を長引かせている。ひんやりとする夏の夜明けは常に心地良い。とりわけ今朝は、思い出がよみがえり、輪をかけて心地良く、わが気分はすこぶるつきに良好である。夏の暑さ凌ぎには、「子どもの頃の夏の思い出」こそは、飛びっきりの無償の良薬と言えそうである。