医療破綻にかかわる下種の考察

七月二十九日(金曜日)、きのうの昼間を引き継いで、いよいよ訪れた真夏の夜明けを迎えている。夏好き、夏嫌いの人もいることから、良い悪いは別にして本格的な夏モードである。肌身に感じる夜明けの心地良さは、これまた夏モードである。真夏にあっては、昼間の暑さには辟易する。確かに、きのうの昼間の暑さには、それを実感した。そのぶん、夏の朝、夏の夕暮れの心地良さは、これまた格別である。しかし、地震をはじめとする天災がなければ、夏の暑さなどなんのその! 自然界の恩恵は無限大である。しかしながら現下の日本の国にあっては、そんな暢気(のんき)なことは言っておれない。なぜなら、新型コロナウイルスス蔓延のせいで、「医療破綻」が日々現実味を増している。医療破綻とは、病気になっても病医院へは掛かれない、診てあげたくも医者が診てやれないということであろう。挙句は、患者のほったらかしである。具体的には、「当院は、診療および診察、お断りします」ということなのであろうか。そうであれば当該の病医院とて、経営が成り立たないはずである。だからまったくの診療拒否ではなく、患者が多くて手に負えない状態であろう。わが下種の勘繰りをすれば、なんだか腑に落ちない医療破綻である。子どもの頃のわが家の茶の間の棚には、まるでそのためにわざわざ棚をこしらえたごとくに、富山の配置薬の薬箱がいくつも押し込められていた。人の好い母は、どれもこれもが断り切れずに置いたのであろう。入れ替わりめぐって来る配置薬の人には、そのたびに頭を下げ背中をエビ型にして、こう言って謝っていた。「ちっとも、服んでいませんもんね、申し訳なかです。そろそろ、回ってこられるから、ちっとは服まんといかんばいとは、言ってはいましたばってん…」。ところが、回ってくる人はみな、まるで親戚のごとく愛想の良い人ばかりだった。「薬は、服まれないことに、越したことはなかですよ」と言っては、悪びれずニコニコ顔で数えていた。私は風船を欲しさに、傍(そば)に立っていた。母の支払いは小銭程度であっても、風船はたくさんくれた。目下、新型コロナウイルスは、さらに感染力を強めて蔓延中である。だけど、わが家には配置薬はおろか、市販の薬の買い置きを入れる薬箱はない。病医院からもらった服み残しの薬袋は、てんでんばらばらに散らばっている。これらのことから現在の私は、思案投げ首状態、手っ取り早く言えば思案中のことがある。それはコロナ下にあっては、市販の解熱剤と鎮痛剤くらいは買い置きしておくべきか! ということである。もちろん、医療破綻を見越しての事前の備え(配置薬)である。防災には様々な備えのグッズ(備品)がある。それらを真似てとりあえずは、頓服薬の解熱剤と鎮痛剤に限るものである。言うなれば、新型コロナウイルス対応の防災グッズ(薬剤)である。私は、実際の医療破綻現場は知るよしない。しかし、日に日にこの言葉が現実味を帯びて、わが身を脅かしている。きわめて、厄介な言葉でありかつ現実である。真っ白けの朝日の輝きに、恐ろしいウイルスが潜んでいるとは思いたくはない。