七月二十四日(日曜日)、清々しく夏の夜明けを迎えている。顧みれば一年前のこの日は、「東京オリンピック」の開幕日だった。新型コロナウイルスの蔓延下にあっては、世論騒然とする中での異様きわまりない開幕式だった。オリンピックがどうのこうのと言うより、私は時の流れの速さを感じている。ところが、コロナ騒動だけは一年前とまったく変わらず、いや感染者数を弥増(いやま)して、今なお終息をみない。コロナのしつっこさには、ただただ唖然とするばかりである。さて、「ひぐらしの記」の書き始めの経緯(いきさつ)を繰り返し書けば、こうである。「前田さん。なんでもいいから書いてください!」。現代文藝社を主宰される大沢さまは、わが六十(歳)の手習いを見抜いて、たちまち天にも昇りたくなるようなご好意を差し伸べてくださったのである。大沢さまの真意を曲解しているように思えるところはあるけれど、私は果報を素直に喜び、さらにはお言葉に甘えて駄文を連ねている。何を書いても良く、そのうえ賜った命題は「ひぐらしの記」である。手習い中の私にとっては、もちろんこれを超える書き易さはほかにない。その証しに私は、十五年ものの長い間、書き続けている。賜ったお言葉は、まさしく大沢さまの優しさが滲む出るものだった。私にすれば「何を書いてもいい」、ということになる。すると、きょうの私は柄でもなく、ふとこんなことを浮かべて書いている。お釈迦様は自己都合丸出しに、この世には四苦(生・老・病・死)、さらに四苦を加えて、四苦八苦があると説教されては、極楽浄土がるとからと言って、あの世へ無理矢理導かれる。確かに、この世には四苦のみならず八苦がある。だからと言って私には、お釈迦様に騙されて、早やてまわしにあの世へ行くつもりは毛頭ない。いくらか負け惜しみだけれど現在の私は、泰然と死に向かう心構えを育成中である。四苦とは文字どおり、生まれることの苦しみ、老いることの苦しみ、病になることの苦しみ、死ぬことの苦しみである。まことにわかり易い説教である。これに重なる四苦は、「愛別離苦」、「怨憎会苦(おんぞうえく)」、「求不得苦(ぐふとくく)」、「五陰盛苦(ごおんじょうく」である。つごうなべて、四苦八苦である。愛別離苦:愛する者との別れの苦しみ、怨憎会苦:恨み憎む者に会う苦しみ、求不得苦:求めているものを得られない苦しみ、確かにさりなんとおもうところ大ありである。五陰盛苦:心身を形成する五つの要素から生じる苦しみ。五陰すなわち、色(しき)、受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)、と説かれても、私にはさっぱりわからない。いや、お釈迦様の身勝手な唱えなど、わからなくても構わない。だから自分なりに考える。究極、人間すなわち人生のテーマ(課題)は、「生と死」である。これに付き纏う感情の言葉は、「喜怒哀楽」と言えそうである。喜び多く生きるか、憤懣をたずさえて生きるか、悲しく生きるか、楽しく生きるか。すなわちそれは、抗(あらが)えない死に至るまでの生き方と言えそうである。人生行路とは喜びと楽しみ多く、生をまっとうしたいためのはるかな道の苦闘と言えそうである。だとしたらできれば、喜び勇んで楽しく死に赴きたい!。こんな叶わぬ欲望があっていいのかもしれない。「前田さん。なんでもいいから書いてください!」。しかし、こんなバカげたことまで、書いていいのだろうか。すると、十五年の継続は、厚かましいわが面(つら)汚しと言えそうである。わが身をわきまえない苦しみを表す言葉があってもよさそうである。咄嗟のわが造語はこれである。「身知得苦(みちとくく)」、すなわち身のほど知らずで、あるいは身のほどを知りすぎて苦しむこと。四度目のワクチン接種の痛みは、接種後三日目にして跡かたなく消えている。だから、気分を良くして、夏の朝のいたずら書きをしたためたのである。ただし、大沢さまへの謝意だけには真剣みがあふれている。いたずら書きの対象はお釈迦様である。神仏にすがることなく私は、「生と死」にたいして、わがありったけの知能をめぐらしたのである。朝日の輝きが増している。神仏とは異なり自然界の営みには、胡散臭さはまったくない。何でも書いていいけれど、半面それは、たやすいことではない。だから多くは、バカなことを書いている。