「もう、書きたくない。もう、書けない。もう、止めよう」。現在のわが偽りのない心境である。ところが、書いている。しかも、このところは、長い文章を書いている。それは、一度目覚めると二度寝にありつけず、そのため、たっぷりと執筆時間があるせいである。寝床で悶々とすることに耐えきれず起き出すと、夜明けまでの時間を埋めるためには、おのずからパソコンに向かわざるを得ない。なんと、なさけなく、かつ苦々しい「ひぐらしの記」の執筆事情であろうか。決断力に乏しい、すなわち優柔不断は、わが生来の「身から出た錆」の一つである。「止めたいけれど、止み切れない」。それには、こんな恐れのせいがある。一つは、生きる屍(しかばね)状態への恐れである。そして一つは、止めれば認知症に見舞われるのではないか、という恐れである。こう思う半面、「やはり止めたい!」、すなわち潮時に苛(さいな)まれている。現在の私は、揺れ動く心境をありのまま、すなわち正直に書いている。止めたい理由をもう一つ加えれば、それは文章の難しさゆえである。さて、加齢とは、人間が避けて通れない、文字どおりいのちの宿命である。加齢は日々、人間の生活を蝕(むしば)んでゆく。金無しと、妻の喘息、ほかもろもろの事情で余儀なく私は、都会の僻地に宅地を買い求めて住んでいる。もちろん、いやおうなく終(つい)の棲家(すみか)となる。現在八十二歳、とうとう私は、山際の日常生活に手を焼いている。日課とする周回道路の掃除はままならず、庭中の夏草取りには手古摺り、大船(鎌倉市)の街への買い物は、日を追って難民状態になりつつある。肝心要の病医院への足取りは、診察券が増えるたびに重くなるばかりである。総じて加齢は、一気にわが日常生活を脅(おびや)かしている。確かに、鏡さえ見なければわが心中の姿は、(青年像)のままである。ところがどっこい、やはり加齢のしわ寄せは日常生活にあっていたるところ、もはや精神力では補えないところまできている。確かに、「鼓舞とか発奮とか」いう、自己奮励の言葉がある。しかしながら加齢の場合は、笛吹けども踊らず状態にある。書くまでもないことを書いて、時間をつぶしたつもりだけれど、夜明けまではまだたっぷりと時間がある。指先、しどろもどろに書き終えても、壁時計の針は、四時あたりをめぐっている。わが人生はたそがれどきを過ぎて、宵闇である。こんな文章、書かなければよかった。やはり、「ひぐらしの記」は、潮時である。