七月十七日(日曜日)、またもや朝日の見えない夜明けが訪れている。本当に梅雨は明けているのであろうか。気象庁は大きなミスをしでかしているのでは? と、勘繰りたくなる。このところ、ぐずついている天気のせいである。
さて、八十二年生きてきて、いや生きてみて、われ語る。来し方は、短いと感じている。それに加えるこの先は、もう僅かである。だから、人の一生は、短いものである。考察というより、現在のわが感慨である。だからと言って、どうすることもできないのが、人はもとより「生きとし生けるもの」の命の定めである。
雨模様、曇り空に乗じてこのところの私は、庭中の夏草取りに向かっている。気を入れてやれば、一日もかからず済むほどの狭小な庭中の草取りである。ところが、腰痛持ちの私には、草取りにおけるみずからの決め事(定番)がある。それは百円ショップで買い求めたプラ製の椅子に腰を下ろして、まるでドンガメみたいにノロノロと、前へ進まざるを得ないことである。こんな体たらくではもちろん、草取りははかどるはずもない。抵抗する雑草、いやときには雑草とバカ呼ばわりにはできないほどにか弱く、可憐な草に出遭うこともある。こんなときには瞬間、わが指先は躊躇する。また、草取りにつきものは、わが意図せずとも地中のミミズの追い出しがある。このときのわが境地は、素直に「ごめんね!」である。ところが、このときのミミズの態様には、おおむね二つがある。一つは、たちまち長身痩躯をくねくねとして、逃げ場(隠れ場)を探しまわるものがいる。一つは不貞腐れて、その場にねそべっているものがいる。切なさと憐憫の情をおぼえるのは、もちろん前者である。それに比べて後者は、なんら可愛げなく、その図々しさが憎たらしいだけである。しかしながら私は、どちらも指先でつかんで、草を取り終えたところに移してやり、さらに土をふりかけて、日光のお出ましを遮(さえぎ)っている。こんな殊勝な行為は、子どもの頃の罪償いのだめである。
子どもの頃の夏の楽しみは、夕方「内田川」に「延え込み」(ふるさとの川魚取りの仕掛け)を掛けて、夜明け前に引き上げることだった。この仕掛けの狙いは、主にウナギだった。このとき、針先にさしていたのはミミズだったのである。ミミズがウナギに変わっていた朝の私は、狂喜乱舞した。台所へ飛んで帰ると母は、「ウナギがかかっていたばいね!」と言って、坊主頭をなでなでした。私にとってミミズは、もちろん虫けらではない。いや、この上ない思い出を育んでくれた、かけがえのない同僚である。だからその命、今では粗末にはできないと思う。しかしながら、後の祭りである。草取りにおける罪滅ぼしは、わが自己慰安だけである。短い来し方にあって、「内田川」の「延へ込み」は、最も楽しい思い出である。他郷にあっては、もうその楽しみはない。その楽しみがなければ、命尽きても損な気はしない。ごちゃまぜの文章にあっては、表題のつけようがない。