七月十六日(土曜日)、未だ明けきれない夜明けにあって、生々しく舗面を濡らしている、どんよりとした梅雨空が視界を覆っている。それゆえ、清々しい夏の夜明け、夏の朝ではない。きょうは、七月盆の最終日、すなわち送り日(火)である。掲示板上にはおととい(七月十四日)書いた『生煮えの夏』、そしてきのう(七月十五日)書いた『わが命(人生)、八十二年』の文章が張り付いている。ところが、憎たらしいけれど、『生煮えの夏』は、きょうへ引き継いでいる。一方、当を得た表題だったなあー……と、ひとりほくそ笑んでいる。
「暑い、暑い夏!」という言葉の合唱は、このところはすっぽりと姿を晦(くら)ましている。歌の文句じゃないけれど、「だから言ったじゃないの、暑い、暑いと言って、自然界に恨みつらみを言うのはよしなさい!」。いや、夏が暑いのは、自然界の恵み、すなわち天恵である。だから、「暑い、暑い」と言って、天恵をこっぴどくたたくと、しっぺ返しをこうむると思うべし。案外、生煮えの夏は、自然界の手っ取り早い仕返しかもしれない。
この文章の表題は、いまだわからない。書き殴りが済んだ後に、おのずから浮かんでくるはずである。
きのうは朝一番にふるさと便、いやこの場合は、ふるさと電話のベルが鳴った。毎年の習わしとはいえ、いまだ朝御飯中だったからびっくり仰天、私は口をモグモゴさせながら、固定電話の受話器を難聴の耳に当てた。ふるさとの姪っ子の馴染んだ声が、受話器に弾んだ。
「叔父ちゃん、お誕生日、おめでとうございます。たくさん、長生きしてくださいね。きのうのお父さんの初盆には、いろいろとしてもらって、ありがとうございました」
「おう、早いね。きょうも電話来るかな? と、思っていた。だけど、早いね。もう、死にたいけど、まだ死ねないね。こちらにもいろいろ、あってね。兄の初盆には帰れず、ごめんね。初盆、お疲れさま。ありがとう」
「帰ってこんでもよかですよ。いろいろとしてもらって、ありがとうございました。叔母ちゃんのぐあい、どうですか。熊本はコロナが増えています。身近になって怖いです」
「そうだね、熊本県は人口比では沖縄県に次いで二番目だね。神奈川県も多いよ。ほんとに、怖いね!」
「叔父ちゃん、ありがとうございました。叔母ちゃんによろしく、言ってください」
「ありがとう。じゃ、またね」
きのう書いた『わが命(人生)、八十二年』には、七月盆のさ中における、わが誕生日の重なりにたいし、「奇しくも」という言葉を添えた。ところが「ばかじゃなかろか!」、私は肝心要のもっと摩訶不思議なめぐりあわせのことを添えそびれていたのである。それはすなわち、私にとっての「七月十五日」は、七月盆のさ中、わが誕生日、さらには母の祥月命日という、三つ巴の重なりの日である。電話してきた姪っ子は、昼間はいつも母(祖母)の膝に乗っかり、寝床では毎晩、祖母の布団の中にスヤスヤとうずくまっていた。こんな私的なことを世界版(ブログ)に書けるのは、「ひぐらしの記」の恩恵と、そしてそれを許してくださるご常連の皆様のあたたかい、声なき声のおかげである。
あたかもきのうのカウント数は、このところの最高値を示していた。だから、ひとことで言えば、「しがない作者の、これに尽きる冥利」である。書き殴り文、結文へたどりついた。おのずから表題が決まった。明けきった夜明けは、今にも大空からぽたぽたと、いや土砂降りに雨が落ちそうである。幸いなことには、私は「暑い、暑い!」とは、言っていなかった。だから、私への仕返しはない。ただちょっぴり、夏の朝の清々しさが遠のいていることには残念無念である。だけど、ちっとも恨みはしない。