ふるさとは「七月盆」

常に、就寝時に枕元に置いたり、かつては外出行動時において携行していた電子辞書は、わが貧弱な脳髄を見るに見かねて補う、役割をになっている。しかし、とりわけ買い物の帰りには、重たいという難点があった。それゆえにガラケーをスマホに替えたのちには、軽いスマホが電子辞書の役割を代行し、今や電子辞書の携行は沙汰止みになっている。さて、きょう(七月十三日・水曜日)は、七月盆の迎え日(火)である。迎え日(火)があればおのずから、送り日(火)(七月十六日)がある。(火)を添えたことにたいしては、わが子どもの頃から知りすぎているお盆(盂蘭盆)の慣習だけれど、あえて手もとの電子辞書を開いた。「迎え火:盂蘭盆の初日の夕方に、祖先の精霊を迎えるために焚く火。門前で麻幹を焚くのが普通。迎い火。送り火:盂蘭盆の最終日に、祖先の精霊を送るために焚く火」。これまた今は沙汰止みだけれど、かつての私は、分厚い国語辞典を愛読書にしていた。幼稚園児でも知りすぎているような、いや何から何まで辞書や辞典にすがらなければならないわが脳髄は、つくづく哀れである。ただ今回にかぎれば、かつての迎え火や送り火を焚く光景が、例年になく懐かしく甦ったからである。いや実際には、懐かしさは去年くらいまでであり、今年は格別つらく甦っている。なぜなら、おととし(一昨年)あたりまでは、主だって迎え火・送り火を焚いていたふるさとの長兄は、二年近くの長患いののちに今年は、初盆というあの世の言葉を恩着せがましく着せられて、迎えられたり、送られたりする精霊の仲間入りをしてしまった。すでに精霊と化している父や母、異母や異母きょうだい、さらには亡き長姉、妹、弟たちは、「待っていた、よく来た」と言って、うれしがるはずはない。七月盆の入り日にあって鎌倉の夜明けは、シトシト降りの雨である。しかし、わが心中の雨は、(ゴーゴー降り)の雨である。ふるさとは、雨嵐の夜明けであろうか? 雨嵐をついて、迎え火など焚かないでほしいと、願うところである。なぜなら、わが心中にあって長兄は、「しずよし。ひぐらしの記、よう長く、書くばいね! おれの自慢たいね…」と言って、微笑んで生きている。