実のない文章で、早起きの暇はつぶれている

まだ眠いのに二度寝にありつけないことは、お釈迦様が説く四苦八苦に次ぐ、人間の苦しみなのかもしれない。こんなことを胸中に浮かべて、きょう(七月二日・土曜日)もまた、仕方なく起き出してきた。とことん、バカな私である。起き出せばこれまた仕方なく、パソコンを起ち上げている。とことん、バカの上塗りである。バカの証しに、実のない文章を書き始めている。壁時計の針は、いまだ夜間と言える四時前あたりをめぐっている。「夏至」(六月二十一日)が過ぎたばかりなのに、それでも体感的には夜明けを遅く、夕暮れを早く感じ始めている。外働きの職業や、わずかの家内仕事さえいっさい持たない私は、いまだ夜間とも言えるこんな時間に起き出すのは、早すぎて損々である。精神異常をきたしているのか? と、自問するところである。もちろん、自答はノーである。しかし、尋常でないことは、承知せざるを得ない。「春眠暁を覚えず」。春とは言わず夏の夜明けにあっても、この成句に浴することに、こしたことはない。ところが今や、この心地良い成句は、私から遠ざかり死語になりかけている。仕方ない早起きだけれど、そうであればわが子どもの頃のように「早起き鳥」の声を耳にして、起き出したいものである。実際には、懐かしさつのる夢まぼろしである。起き立ての私は、開くまでもないと思いながら、電子辞書を開いた。そして、二つの言葉を見出し語にした。一つは、四字熟語の自業自得である。「自業自得:仏教で、自分が犯した悪事や失敗によって、自分の身にその報いを受けること」。一つは、泡沫である。「泡沫:①あわ、あぶく、うたかた、みなわ。②はかないもののたとえ。泡沫候補」。幼稚園児はともかく、小学生なら入学したての一年生でさえ知りすぎている簡易な言葉である。それなのにあえて開いたのは、こんな気持ちが心中に渦巻いていたせいである。すなわち前者は、このところのカウント数値の減り傾向が、わが長い駄文のせいかなと、思っていたゆえである。後者は、参議院議員選挙における、テレビ演説を耳にして、泡沫候補の心境をおもんぱかっていたからである。結局は起き立の暇つぶしにすぎない。確かに、私自身には精神異常の自覚症状はない。だけど、はた目にはどうかな? と、思うはざるを得ない、似非(えせ)「早起き鳥」の嘆きである。ほとほと、実のない文章である。涼やかに明けた夏の夜明けが、わが気分を癒し、とめどなく慰めている。