支離滅裂

六月三十日(木曜日)、就寝中の私は、夢の中に生きていた。それも、ほとんど悪夢の中に生きていた。私は無名人。だから苦心惨憺しながら書いても、読んでくださる人たちは、手足の指の数をわずかに超えるくらいである。それゆえにこれらの人たちは、私にとっては恩人を超えて神様と崇めてもいい人たちである。ところが、ほとんどそれらの人たちの名さえ知らない。もとより、感謝の思いを伝える手立てはない。だからなお、対面で感謝を伝えたい思い山々である。翻って世の中の有名人は、みずからは一字さえ書くことなく、ゴーストライターに書いてもらい、星の数ほどの読者にありつける。もちろん、僻んでいるわけではない。起き立てに、ちょっぴり書いてみたくなっただけである。言うなれば、悪夢払いの便法である。まだ時間は早いのに、夏の夜明けはすでに朝日がキラキラと光っている。何たるさわやかな夏の朝、いや夏の夜明けだ。実際にはこの気分が、悪夢をすっかり払ってくれている。このところの私は、梅雨が明けるやいなや、夏風または夏の朝風の快さなどを立て続けに書いた。そしてきのうは、これらの打ち止めいや総括みたいに、「わが、夏礼賛」という文章を書いた。しかし、これで打ち止めとするのはもったいなく、まだ書きとどめて置きたいものある。無論、付け足しとは言えず、わが体感に違いを変えて、夏の朝風にも匹敵するものである。だから順位をつけずに、夏にかぎりわが好む風を掲げてみる。それらは、朝風、昼風、夕風、そして夜風である。もちろんこれらは、言葉どおりだとかなりの違和感がある。しかしながらどれもが、心地良さを恵んでくれることにはかわりない。昼風の場合は、ズバリ木陰にたたずんでいるおりに吹いてくる涼風、夕風は夕涼みどきに吹いてくれる心地よい風、夜風はこれまたずばり、網戸から忍び込むひやりとする風である。風と並んで雨もまた、夏の雨は好し! と、書きたいところはある。ところがこちらは、日照り雨と夕立くらいである。このところの私は、書き殴り特有に長い文を書いている。だからきょうは、意図してこれで書き止めである。こんな味気ない文章を読んでくださる人たちは、私にとってはやはり、いつわりのなく現(あらひと)の神様である。悪夢には、魘(うな)されるとう常套語(じょうとうご)がつきまとう。漢字の成り立ちからすれば、確かに「鬼」の仕業であろう。だとしたら、追っ払ってもつきまとう、飛びっきりの悪鬼(あくおに)なのだろう。ならば、さわやかな夏の夜明けで鬼退治である。現在のわが気分は、鬼を懲らしめてさわやかである。ただし、あまりにも支離滅裂で、この文章には表題をつけようがない。仕方ない、ずばり支離滅裂としよう。表題はどうあれ、鬼退治を果たし、悪夢を遠のけて、わが気分は爽快である。