六月二十九日(水曜日)、二度寝にありつけないため、仕方なく起き出している。ところが、これには予期しないオマケがある。いくらか長くは夏の朝、短くはその夜明けが楽しめることである。窓ガラスを網戸にきり替えると、「あなたをうずうずして待っていました!」とばかりに、夏風いや夏の朝風がわが身に吹いてくれる。私は、この瞬間が好きである。これを超える無償の風の恵みは、炎天下にあって木陰にたたずむおりに、わが身にさらっと当たる涼風(すずかぜ)である。共に、有償のビールなどで喉や身を潤すまでもない、無償でありつける心地良さである。風のありがたさをしみじみと感じるのは、こんなおりに吹く風、すなわち夏風である。決め手のここで、転換ミスで「夏風邪」と誤れば、わが「夏風」礼賛は台無しである。心地良い夏風と比肩してもう一つ、わが夏好きを成しているのは、着衣の軽装である。いやこちらは、心地良い夏風を凌いで、飛びっきりの夏礼賛を成している。半ズボン、猿股パンツ、ふぁふぁのステテコ、薄地の半袖でシャツの恩恵など、これらこそわが夏礼賛の筆頭に位置している。
長く文章を書き続けていると、はからずも四季折々に同じようは文章を書いている。もちろん、反省しきりである。しかし一方、それは仕方のないことだと、自己弁護する気持ちも旺盛である。なぜなら、もとより私は、創作文は書けない。だから、『ひぐらしの記』に甘んじて、文字どおり書き殴りで日記風に書いている。すると、わが脳髄の乏しさに加えて、毎年、四季折々に書くネタはほぼ同様となる。私には、それらのネタを焼いたり煮たりする能力はない。挙句、二番、三番煎じどころかいやいや、自分自身が飽きて呆れかえるほどに、繰り返し書き続けているにすぎない。
確かに、このところの私は、駄文を字数多く書き続けている。もちろんこれには、仕方がないという自己慰安は捨てて、反省しきりである。だからきょうは、尻切れトンボを自覚してまでも、これで書き止めである。いや、少しだけ自己弁護をすれば、きのう纏めた草取り袋、そして庭木の切り枝の束をごみ置き場へ持ち込むためである。これらの持ち込みは、週一・水曜日に限られている。
とっくに、夜明けの朝日は輝いている。朝御飯の支度までには、まだかなりの時を残している。もちろん、朝飯前の一仕事とも言えない。ただ、無性(むしょう)に夏の夜明けの心地良さを実感できるひとときである。