夏の朝風

 きのう(六月二十六日・日曜日)、どこかしこ局のテレビニュースには、日本列島各地の猛暑報道があふれかえっていた。街頭インタビューに応じる人々は、異口同音、みずから感じた猛暑ぶりを伝えていた。もちろん顔面は違うけれど、これまたみな同様に辟易顔をさらけ出していた。私は涼しい顔で茶の間のソファにもたれて、それらに見入っていた。気象庁は気温の高さを基準にして、こんな暑さの指標を定めている。
 「熱帯夜:夜間の最低気温が25度以上。真夏日:昼間の最高気温が30度以上。猛暑日:昼間の最高気温が35度以上」。
 気象庁はまだ決めかねているけれど、私は自分勝手に「酷暑日」(昼間の最高気温が40度以上)という、指標を設けている。これらの指標は気温を基に定められていて、人みなそれにしたがって暑さの程度を感じ取っている。これら科学的指標とは異なり、人体まちまちに体感的に感じる暑さの程度を表す言葉は、人それぞれにさまざまある。私はソファにもたれながら浮かぶままに、それらを脳髄にめぐらしていた。言うなれば浮かぶままに私は、語彙(ごい)の復習をめぐらしていた。わが凡庸な脳髄が浮かべるものは、おのずからごく限られている。もちろん、暑さの程度も確かなものではなく、浮かんだ言葉のごちゃまぜの羅列にすぎない。極暑、酷暑、猛暑、激暑、炎暑、炎天、灼熱、暑熱、真夏、盛夏、暑中、残暑、日照り、蒸し暑い、うんざりする暑さ、さらに暑さが誘引する熱中症を加えても、ざっとこれくらいである。頭脳明晰な人であれば、まだまだたくさん浮かべるであろう。
 確かに、うんざりする暑さを浮かべたけれど、不断の私は、太陽(光線)を悪者呼ばわりしたことなどたったの一度さえない。いや逆に、心中では「日光、日光!」と呪文さえ唱えて、崇め奉っている。すなわち、私にとって太陽の恵みは無限大である。私は太陽には憎さはないけれど言葉の綾として対比して用いれば、憎さ百倍いや無限大の憎さを感じるのは地震である。
 ふるさと県・熊本は、きのう震度5程度の地震に見舞われたという。このところの日本列島は、各地に地震が頻発している。確かに、太陽の暑熱と地震を対比するのは愚かであろう。太陽の暑熱はいっときの我慢、一方地震は生涯の恐怖である。
 きょう(六月二十七日・月曜日)、夜明けの天上、空中、地上には、まばゆいほどに清々しい朝日(太陽光線)が光っている。きのうに続いてたぶん、日本列島のどこかは猛暑日を超えて、わが造語酷暑日あたりまで気温が上がるであろう。たとえそれが鎌倉地方であっても、私は「なんのその…」と嘯(うそぶ)くくらいで、もちろん憎みはしない。ただ、「日光、日光!」と唱える呪詛は、一時停止の憂き目を見るかもしれない。暑い昼間があるからこそ、余計夏の朝風は心身に沁みて、すこぶる快いものである。もちろん、負け惜しみではなく、わが本音である。