『夏至』

 「夏至」(六月二十一日・火曜日)にあって懐郷、「内田川」の水面(みなも)の上や、出来立てほやほやの水田上空を飛ぶホタルは、すでに舞い姿を納めているのであろうか。それでも、ホタルに付き纏う思い出は尽きない。子どもの頃の遊び仲間のホタルにたいし私の場合、無粋(ぶすい)な「ホタル狩り」という言葉や情景は、ご法度(はっと)である。わが一方通行的に遊び仲間と言うのは、もちろんホタルにとっては、憤懣やるかたないお門違いである。それゆえに私は、いまになってとことん懺悔したところで、ホタルにたいする罪作りの償(つぐな)いの欠片(かけら)にさえもならないことくらいは知りすぎている。
 梅雨の晴れ間の夕闇迫る頃にあって、ホタルの光が目先にチラチラしだすと心急(こころせ)いて私は、座敷から上がり框(かまち)を飛び跳ねて、土間へ下りた。ランダム(あちこち)に置かれていた杉下駄の一つをつっかけて、母屋から庭先へ出た。門口に立てかけの竹箒を手にした。飛び交うホタルの光をめがけて、打ち下ろした。畦道や草むらに落ちても、ホタルの光はなお消えず、明滅を繰り返している。ホタルをなんなく指先で拾い上げて、ホタル籠に入れた。いや多くは、拾い上げさえしなかった。打ち下ろすだけが、わが遊び心だった。結局、体(てい)のいい遊び仲間と言うのは、わが嘘の繕(つくろ)いであって、実際にはホタルにたいする、わが一方的虐待だったのである。
 確かに、わが子どもの頃にあって見ていたホタルの舞う姿は、今でもわが懐郷の上位に位置している。しかしながら今となっては、罪作りの思い出と化して、懐郷ランク下げるべきなのかもしれない。思い出としては切ないけれど、それでもやはりホタルの光を偲ぶ心は、この先も変わりようはない。罪償いの懺悔とはいえ、それもまた私にとっては、懐かしい思い出として留め置きたいものである。虫が良すぎるだろうか? と、切なく自問するところはある。結局、遅まきながらの一方的償いは、わが命尽きるまで心中に、ホタルの光を偲び、愛でそやしてやることであろう。
 「ひぐらしの記」十五周年(六月十五日)は、忘れかけてすでに過ぎ、夏至を迎えている。ふるさとホタルは、すでに今年の舞い納めを済ましているかもしれない。私は時の流れの速さ感に、アタフタとしている。窓の外に見えるアジサイもまた、早や彩りや艶を落とす後半戦突入である。梅雨どきののどかな朝ぼらけにあって気になるのは、日本列島のあちこちにおけるこのところの地震の頻発である。ふるさとのホタルの光は、日本列島の平和の証しだったのかもしれない。そうであれば、わが罪作り旺盛である。