命の終焉近くになってまで、わが身を思い、悩み患うのは、愚の骨頂とは知りすぎている。六月十八日(土曜日)、浅い夜明けの起き立ちにあって私は、わが生涯におけるいろいろ、さまざまな悔いごとを浮かべている。それらの中には生来ゆえに、悔やんでもどうにもならないものが限りなく含まれている。それらを列挙する暇(いとま)はないけれど、いま浮かんでいるものでは脳髄の凡愚、小器、小心、醜面、近眼をはじめとする目の病などがある。
確かに、先天的・生まれつきのことで悔い悩むのは、馬鹿げている。これらに比べて後天的なものでは、意志薄弱、優柔不断、とりわけ怠惰精神、ずばり三日坊主(怠け者)である。先天的そして後天的の中間に位置するのは、これまたずばり手先不器用である。なかんずく、数々の文明の利器の利用や使用には手古摺るばかりである。だったら、生きていてもしようがないかと言えば、いやいやまだまだ、生きたい欲望はある。
きのうの私は、現代文藝社のホームページのリニューアルにともなう、掲示板投稿のやりかたについて、大沢さまよりきわめて長い時間、電話でご教授を賜った。この間の私は、指先は手古摺り、精神状態はしどろもどろだった。ご面倒をおかけした大沢さまにたいしては、平に詫びて、感謝するところしきりである。それゆえ、とりあえずこの文章は、送稿テストのつもりである。それに失敗すればくたびれもうけだけで馬鹿らしく、だからこの先を書く気にはなれない。
わが生涯、わが人生における悔いごとは、あまた山ほどもある。案外、それは生きている証しなのかもしれない。しかし、生きたい欲望とは裏腹に、悔いごと逃れにもう見切りをつけたい思いもある。うっすらと夜が明けても、梅雨空には朝日の光はない。