小さな幸福

 六月十七日(金曜日)、梅雨時、すっかりとは明けきれない夜明けが訪れている。おとといの夜、二度寝にありつけず起き出して書いた短い文章は、わが心象に飛んでもない僥倖をもたらした。きょうもまた、二度寝にありつけず、起き出して来たまま書いている。しかし、再び柳の下にドジョウはいなくて、ただただ苦しんでいる。いまさら言わずもがなのことだけれど、自分自身が年をとって、それに輪をかけてつらいのは、妻をはじめ周囲の人たちがみな、老いの姿を見せていることである。自分自身は鏡や写真を避ければ、面貌の老いは見ないで済むことがある。精神状態はもちろん青春ではないけれど、そんなに老いを感じない。だから私は、意識して鏡や写真を見ることは避けている。馬鹿げて幼稚な、わが老いの身癒しの便法である。鬱陶しいマスク姿にも唯一、ご利益にありつけるのは、いっときの老い面隠しである。最も身近なところでは妻も、すっかり面貌を変えてしまった。ところが私は、それを見ることを避けることはできない。一方、妻もまた、わが老いた面貌を見ずに済むことはできない。挙句、共に見苦しく、息苦しい日々に見舞われている。鏡や写真は見なくとも、こんな精神状態こそまさしく、老いの証しである。無理して起き立の文章を大慌てで書かなければ、こんななさけない文章は書かずに済んだ。
 きのうは、妻の髪カットの引率同行で、妻が普段行きつけのカット店へ出向いた。美容院とは書けない、場末の安価を売り物にする出店(でみせ)みたいなところである。ところが妻は、指名料金を払ってまで担当者を選んで、この店に馴染んでお気に入りである。お店は路線バスに乗って、私が買い物へ行く大船(鎌倉市)の街にある。妻は久しぶりに髪カットを果たし、そのうえ仕上がりの良さに十分満足した。互いのマスク外しの面貌はほころび、いつになく会話が弾んだ。その証しには初入りの「海鮮食堂」(二階)に入り、カウンターで適当な間隔をとり、昼限定の「刺身定食」(一人前1000円)を摂った。ありきたりの定食とは思えない豪勢な見栄えと、堪能できる美味だった。普段、レジ係との会話が好きな私は、初入りかつ初見にもかかわらず臆せず、マスク越しに言葉をかけた。
「下の看板にいつわりなく、いやそれ以上に豪勢でした。二人とも、大満足でした。また来ますね。ありがとうございました」
 中年の女性レジ係は、思いがけない様子を露わにされて、丁寧に謝意の言葉を返された。
 店を出ると妻はヨロヨロ、私はノロノロ、と街中のお店回りを果たし、帰りのバスに乗り家路についた。二人の背中を、雨模様の梅雨空が追っかけてきた。互いの気持ちは急いだ。けれど、足は願うようには急いでくれない。しかし、共に無事でわが家へたどり着いた。
「パパ。きょうはありがとう」
「髪、綺麗に仕上がっているよ」
 小さな幸福とは、これで良し、いやこれくらいで十分! 殴り書きはいつもと変わらなかったけれど、きょうは短からず、長からずの文章の閉めることとなる。小さな幸福は、案外、小さな僥倖をもたらしている。老いの身、欲張ってはいけない。