三つ巴の友愛がもたらした僥倖

神様は、初詣、賽銭、あるいは御百度を踏んで、いくらお参りしたり、願ったりしても、爪の垢ほどのご利益(りやく)さえ恵んでくれない。これに比べて現人神(あらひとがみ)の友人は、祈ったり、強請(ねだ)ったりなどしなくても、わが知らぬところでさりげなく、無償でとんでもないご利益(僥倖)をもたらしていた。メールを開けて玉手箱、私はびっくり仰天した。「前田様 今日、丸山宏子さんからお電話をいただき、ふうたろうさんが前田さんの今日の掲示板の投稿を宏子さんに電話で読んであげたそうです。とても感激されていました。親友は良いものですね。私まで嬉しくなりました。大沢」。お仕着せの友情など、なしのつぶてのままのふうちゃんにたいして、私は真似ることなく大慌てで、「切ない恋のキュービッド、ありがとう」と、送信メールをかけた。きょう(六月十六日・木曜日)の夜明けにあっては、きのうのほろ甘く、かつほろ苦い涙雨は上がり、うっすらと朝日が射し始めている。起き立のわが気分はすこぶる爽快である。しかし、きのうの短い文に味を占めて、だらだらとこの先を書く気にはなれない。幼い子ころから育んできた三つ巴の友愛がもたらした僥倖に、私はしばし浸りきりたいのである。爽やかな余韻は、さらにこの先、わが命尽きるまでエンドレスになりそうである。そうであればと私は、とりあえず両掌(りょうて)を合わせて、パチパチと大音を立てている。