切ない思い出の「わっこ(アマガエル)物語」

六月十四日(火曜日)、梅雨の合間らしい、今にも降り出しそうな雨空の夜明けを迎えている。起き立の私は、きょうこそ短い文章で閉じたい思いに駆られている。しかしながらいつもの殴り書きゆえに、この決意の結末は、みずから知らぬが仏である。竹馬の友・ふうちゃん(ふうたろうさん)は、ふるさと言葉で言えば「にがしろ」(元気者)であり、一方の私は、きわめて気の小さい、すなわち臆病者である。どうしようもない生来の性質の違いとはいえ、子ども時代にかぎらず後々にいたるまでこれには、私は大損である。なぜならこの違いで、互いの子どもの頃にかぎってもふうちゃんは、子どもらしい数々の愉快なエピソード(思い出)をたくさん持っている。その一つをわがたっての願いを叶えて、ふうちゃんはきのうの掲示板に綴ってくれた。言い出しっぺの私は、もちろん感謝感激だった。その証しには、私は短く「恩に着る」と記した。臆病者の私は、他家(よそ)の西瓜泥棒、柿盗み、梨盗りさえの記憶もない。柿と梨の場合は、台風が落とすのを庭先でじっとかがみ待って、落ちるやいなや脱兎の如く走り、拾って持ち帰った記憶だけである。わが子ども時代にあって、子どもらしい愉快な思い出がないのは、いまとなってはつくづく大損である。さらには、にがしろ(元気者)のふうちゃんと比べて、臆病者のわが性質は、子ども時代のみならず、わが人生行路における「後祟り」さえ成している。そのため私は、わが子どものときからこんにちにいたるまで、ふうちゃんにたいしては羨望頻(せんぼうしき)りである。繰り返せば、わが人生行路における子ども時代にあって、私は愉快な思い出を成さずじまいであった。子ども時代の思い出が少ないのは、今となってはかえすがえす残念無念である。先週のNHKテレビ番組『ダーウインが来た』には、アマガエルの生き様を伝える特集が組まれていた。普段の私は、犬の牙、猫の目、さらには虫けらの虫刺されによる痒みなどが怖くて、猛獣はもとより生き物の番組は観る気がしない。おのずからこの番組も敬遠しがちで、これまでほとんど観ずに、つけっぱなしの素通りを余儀なくしていた。ときたまちらっと観たのは、魚介類、あるいは猛禽類ではなく小鳥の飛び交う場面ぐらいだった。ところが、アマガエルのこの日にかぎり、始めから終わりまで観てしまい、挙句、いたずらをしでかした思い出にふけっていた。私だけではなく隣近所の遊び仲間たちは、アマガエルを掴まえて手の平に持つと、それぞれが家から麦わら(ストロー)を持ち出してきた。そしてこののち、アマガエルの尻の穴にストローを差し込み、風呂沸かしの竹棒さながらにフーフーと吹き合った。小柄なアマガエルのからだは、たちまち風船の如く膨れ上がった。確かに、アマガエルにはつらい仕打ちだった。けれど、子どもたちには他愛無(たわいな)い手近の遊びだったのである。その証拠にこれは、わがわずかな愉快な思い出の一つを成している。いまさら、詫びや懺悔のしようはないけれど、このときに私は、番組で観ていたアマガエルにたいし、償いまじりの憐憫の情をたずさえていた。アマガエルだけではなくカエルにたいしは、子どもたちは「わっこ」と、呼んでいた。瘡(かさ)のようなカサカサの恐ろしい風貌のガマ(ヒキガエル)には、風貌そのままに「かさわっこ」と、呼んでいた。ところが怖くて、これにはストローは吹けなかった。案外、にがしろのふうちゃんは、恐れず吹いていたのかもしれない。聞いてみたい気もするけれど、竹馬の友とて二日続きのおねだりはできない。きょうもまた、意図した短い文章は叶えられなかった。夜明けの雨空は、風まじりの小雨を落とし始めている。