一コマの「ふるさと物語」

わが人生行路(わが道)は、書き殴りの自分史や自叙伝の一遍さえ残さず、もはや後がない。まだ死んでいるわけではないから、言葉の表記は「残さず」でよく、死んだら「遺さず」に置き換わる。こんなことはどうでもよく、起き立のわが心象には、ふるさと時代の光景がよみがえっている。とことん、甘酸っぱい思い出なのに、なんだか懐かしさをおぼえている。子どもの頃のわが家は、バスが一日に何度か町中から上って来る一筋の県道を、「往還」と言っていた。のちに私は、「往還」を見出し語にして、辞書を開いた。そして、この言葉をこう理解した。「往き還り」、まさしく道路である。これまた、こんなことはどうでもいい。当時の鹿本郡内田村(現在、熊本県山鹿市菊鹿町)にあって、村中の道路は一筋の往還以外はすべて、村道と私道の田舎道だった。あえて、往還は田舎道に加えなかったけれど、もちろんそれは誤りである。なぜなら往還とて、何らそれらと変わらない田舎道だった。バスが行き交うというにはかなり大げさで、だから一方通行の如くに、「上って来る」と書いたほうがわが意にかなっている。バスは九州産業交通社で、言葉を詰めて「産交バス」と、通称されていた。当時の私は知るよしなどなかったけれど、社名の如く九州一円にバス網をめぐらしていたようである。バスはボンネットの前部・真正面で、エンジンを手回しで起動させていた。この光景にありついていたのは、一時期わが集落の中にあってごく近い(向かえ)のお店が、村中における終点になっていたせいである。中年の男性運転手と、うら若い女性の車掌は共に、紺の制服で身を包んでいた。運転手はともかく、車掌の姿にはほのかというより、私は丸出しの憧れを抱いていた。当初見ていた木炭バスは、いつの間にか姿を失くしていた。再三、こんなことはどうでもいい。当時、一筋の往還には舗装など、夢のまた夢であった。道幅狭い両道端は、手つかずの草茫々だった。肝心要の道路は、小砂利、小石丸出しの凸凹道(でこぼこ道)だった。道路の中央にあって、小池の如く窪んだところは、ざら(あちこち)にあった。そこには雨が降れば雨水が溜まり、夏空の下でもなかなか乾ききれなかった。たまのバスと違って、往還を頻繁に行き交っていたのは、お顔馴染みの馬車引きさんが手綱を取る、荷馬車だった。こんな往還を私は、小・中学生時代は徒歩で通学、そして高校生時代は、自転車通学を余儀なくしていた。日照り続きの往還では、バスは通るたびに、通り過ぎるまで道端で避(よ)けている自分に、容赦なく砂嵐をぶっかけては去った。雨降りや雨の後にバスに出遭うと、これまた道路端に避けている私に、ずぶ濡れになるほどに窪の中の水を吹っかけて去った。なんだかその光景は、このときの私にはやけにいじわるでもして、バスがことさらエンジンを吹かして去っていくようであり、憎さ百倍だった。梅雨の合間にあって、せつなくも、懐かしくさえにも思えてよみがえる思い出の一コマである。これらにちなむ思い出のこの先は、ふうちゃん(ふうたろうさん)にバトンタッチして、この文章は結文とする。行政名(昇格)を変えただけで、過疎化著しい菊鹿町にあって、きらびやかに舗装されている現在の往還には、産交バスはとうに運行を止めている。いや復帰の余地ない、廃線状態にある。心象の傷ではないけれど、今や郷愁の一コマとなっている「ふるさと物語」を書いてみた。六月十二日(日曜日)、梅雨の合間の朝日は、風まじりに煌煌と輝いている。