十一月二十九日(月曜日)、寝床から抜け出してきた。とっくに夜が明けている。こんな状態では時間に急かされて、文章は書けない。だから、文章とは言えない殴り書きと走り書きの共存で、でたらめに指先を動かしている。
確かに、このところの私は、寒気に怯えて起き出しを渋っている。そのせいなのか、単なる時間潰しなのか。目覚めて、寝床の中でことば遊びをめぐらしている。わが当てずっぽうの考察ゆえに、もちろん世の中に通じる普遍的なものではない。枕元には常に、電子辞書とスマホを置いている。ときには、正解にすがるためである。かつては電子辞書のみだったけれど、このころはスマホがお供をしている。だからと言って私は、スマホに寝起きのブザーを託しているのではない。スマホは思いのほか、わが生涯学習すなわち、語彙の復習や新たな習得に役立つからである。スマホは、とりわけカタカナ語や現代語(はやりのことば)の学びには、電子辞書をはるかに超えて便益をもたらしている。これらのことでは今や電子辞書は、スマホの後塵に拝している。挙句、私は情報端末機からだけでも、時代の変遷を十分に知ることとなっている。同時に私は、情報端末機を使いこなしたら、どんなにか愉しみが増えるだろうとも思う。無能に加えてわが生来の手先不器用は、ほとほと恨めしいところである。
さて、先ほどの寝床の中で私は、熟語「生活」をめぐらしていた。そして、この言葉の成り立ちに、「生きて、活動する」と、当てた。わが活動は、二十年ほど前で止まっている。それ以降は、おのずから「生きる屍(しかばね)」状態にある。それゆえに今さらながら、このことばが浮かんだのであろう。もちろん、こんな幼稚なことばを浮かべるようでは、語彙の復習や新たな習得にもなり得ない。結局、私は寝床の中でさえ精神錯乱状態に陥り、挙句、安眠を遮(さえぎ)られて無駄に時の流れの中に身を置く屍状態にある。
約十分間の嘆かわしい殴り書きである。同時に、読むに耐えない文章を強要し、かたじけなく思う夜明けである。わがぐうたらを嘲(あざけ)り,嗤(わら)うかのように、朝日輝くのどかな夜明け訪れている。