手習い始めのころの一文、『秋の山』

 平成十年十月三十日、私は勤務する会社近くの歩道を歩いていた。ハナミズキの赤紫の朽ち葉が三、四枚空中に翻り、私の胸にあたっては舗道の方へ散らばった。歩きながら眠りこけそうな、のどかな秋日和だった。こんな麗らかな日は会社を離れて秋の山の陽だまりで、落ち葉の褥(しとね)に寝そべり手枕をあて、高く澄みわたる秋の空を眺めていたいものだ。
 先日の新聞には都会の人たちのなかで、林業に関心を持つ人たちが増えているという記事が出ていた。林業と言えばここ数年は廃(すた)れる一方で、国有林を統括する林野庁は、膨大な赤字をかかえているという。言うなれば身動きがとれない、国の厄介事業である。むかし、林業王と言われた山持ちのお大尽(だいじん)さえも、今では山の手入れができずに、山は無残な姿をさらけ出し、荒れ放題になっているという。こんな林業の衰退現象に歯止めがかかるとは到底思えないけれど、記事自体にはいくらか皮肉だけど、ほほえましさを感じた。いや、実際のところは都会生活に行き詰まり、背に腹はかえられない、切ない願望なのかもしれない。
 この記事は熊本県のはずれの農山村にはぐくまれたわが血肉が、いまなおふるさとの山野への郷愁を捨てきれないでいる証しだった。それはまた、不況や解雇の恐れなどによって都会生活に疲れを帯びた人たちが、自然願望をつのらせて行き着くところ、林業という山の中の生活に桃源郷を求めた切ない心象の証しでもあった。
 バブルの時期にあっては、耕作に向かないむさくるしい土地までもが地価の高騰を招いた。そのため、農地の宅地並み課税や相続税対策などで苦しむ都市近郊農家は、やむにやまれず休耕田を日曜農園や家族農園に開放した。借り受けた人たちの多くは、日ごろコンクリートジャングルに住み土や緑に飢えたり、あるいは懐郷の念ひとしおの人たちだった。加えて、野菜作りなどまったく初体験の人たちがそろって、にわかにミニ農夫・農家ブームを巻き起こした。借り受けた人たちは、子どもたちのままごと遊びのように土いじりに狂奔した。なかには、趣味と実益を兼ねるだけでは飽き足らず、いっぱしの篤農家まで上り詰める人たちもいた。それはそれで、日ごろ「消費者は王様だ!」などと煽(おだ)てられ、「米や野菜、そして魚は…どうしてこんなに高いの?」と、不満たらたらだった人たちに、農水産林業にたずさわる人たちの苦衷(くちゅう)を体験させたことでもあった。
 確かに人は、生活の重みに疲れて心身の癒しを求めるときには、自然への回帰や自然賛歌を声高にする。しかし、私にはこんな記事に出合うと、うれしい半面「いい加減にして……」と、遣る瀬無い気分に陥るところがある。それはサラリーマンがにわか樵(きこり)になるほどに、都会生活に疲弊したのか? という、切ないわが同情でもある。一方、これがかりそめの憂さ晴らしへの逃避行であれば、実際に農水産林業にたずさわる人たちにたいしては、失礼きわまりないものでもある。
 山の静けさ、木々を揺るがすそよ風、飛び交う小鳥たちを頭上に仰ぎ見る山の生活は、確かに憧れへ誘(いざな)う魅惑旺盛である。しかしながら山仕事が本業ともなると、もちろん美的風景と喜悦ばかりを堪能できるものではない。このことは林業が長年、後継者不足を露呈しているという、現実が如実に物語っている。
 確かに、ひと仕事ののちに、山の中で食べるおにぎりや弁当の美味しさは格別である。だからと言って、有閑マダムの職探しさながらに、興味本位ににわか林業マンになりかわり、山の中に入られても困るのだ。これでは、暴走族みたいに山荒らしになるのが落ちだ。自然や山、かつまた生業(なりわい)の林業マンの真摯な仕事を蹴散らすだけ蹴散らして、挙句には「山はきれいではなかった……」などと、捨て台詞(せりふ)を吐いて都会へとんぼ返り、悠々自適の年金暮らしでもされたら、子どものころから山を愛してきた私には耐えがたいものがある。
 薪割りや薪出し、柴刈りや柴拾いなどが毎日の仕事となったら、日曜農園のようにはいかないのだ。野菜作りには身近に収穫の喜びがある。しかしながら山の仕事は植えつけるだけで、自分の代で収穫や収入の喜びにありつけることなど滅多にない。多くは、長年ひたすら耐えるだけの根気のいる仕事である。
 私はふるさとの長兄に連れられて、スギ林や雑木林の中で、薪割りも薪出しもした。竹山では重たい竹を肩にかついで、汗たらたらに竹出しもした。クヌギ林の中では、原木に椎茸の菌打ちも体験した。それらのときの私は、長兄の仕事ぶりをつぶさに見ては真似をした。それでも、山の仕事に喜びを見出すことはできなかった。挙句、私は「兄さんは、ええな。こんな山の仕事があって……」とは、つゆも思わなかった。生業の山の仕事は、秋の山の中で寝そべって木々を眺めたり、空を見上げたりするのとは違って、ちっとも楽しいものではない。おのずから林業は、この先廃れてゆくばかりである。林業へのロマンは、未体験ゆえのロマンである。