夏賛歌

 鬱陶しい梅雨空が去り、さわやかな夏空の夜明けが訪れている。幸いなるかな! 「東京オリンピック」の開会式を一週間後(七月二十三日・金曜日)にひかえて、今朝(七月十七日・土曜日)から、どんよりとした雲の梅雨空は消えて、夏の朝の澄み切った光に変わっている。まさしく、地上にそそぐ粋な天の配剤、すなわち文字どおりの天恵である。
 きのうには、こんなニュースが流れた。「今日7月16日(金)11時、気象台は関東甲信地方と東北地方が梅雨明けしたとみられると発表しました。平年より関東甲信では3日早い、東北南部では8日早い、東北北部では12日早い梅雨明けです」。
 気象庁の週末予報の梅雨明けは、一日前倒しに実現した。予報の外れに難癖をつけるどころか、万々歳である。なぜなら私は、四季にあっては夏を好んでいる。子どものころであれば、この理由には明確なものがあった。すなわちそれは、「夏休み」とこの期間における、わが家の裏に流れている「内田川」での水浴びや水遊びであった。もちろん現在の私にはこれらは一切叶わず、夢まぼろしだけの郷愁になり下がっている。このことからすれば現在の私は、落ち穂拾いのように郷愁の落ちこぼれで、どうにか夏好きの気分を留めているにすぎないのかもしれない。確かに、こころもとないことだけれど、それでもまだまだ夏の季節が好きである。
 いよいよ梅雨が明けて、きょうから待望していた本格的な夏の訪れである。なんだか今朝は、いまのところ早鳴きのウグイスの声が止んでいる。セミの声は、まだとどかない。これまでの私は、夜明け時から日暮れ時まで、ウグイスのエール(応援歌)にさずかり、わが憂さを晴らし続けてきた。このことを思えば、ウグイスには申し訳の立たない夏の訪れにある。だから私は、できればウグイスとセミの鳴き声のコラボレーション(協演)を望んでいる。
 季節替わりは人間のみならず、「生きとし生けるもの」共通に訪れる、哀しみと悦びの端境期と言えそうである。ウグイスの鳴き声は老鶯(ろうおう)をさらけ出し春先から仲夏のころまで長いけれど、セミの鳴き声はひと夏さえももたずに、早出の秋の虫たちに追い立てられる定めにある。確かに、ヒグラシが鳴けば秋の訪れのシグナルである。すなわち、野鳥や虫たちの入れ替わりは、わが命をことさらに思う季節でもある。夏の訪れにあって、長らえる命やつつがない夏を望むのは、わが欲の皮の突っ張りの証し、きわめて強欲張(ごうよくば)りであろうか。
 ようやく、いつのもウグイスの鳴き声が聞こえ始めている。今朝にかぎればこれにたいし、私はお返しの応援歌をハミングしている。ときには、「がんばれ!」と、声を弾ませている。どっこいこれは、夏の訪れを悦ぶわが「夏賛歌」でもある。夏の朝の光は、澄んで「キラ、キラ」である。