思い出

 俳句といえば、高校一年生の頃のことが強烈に思い出され、最近になってやっとその意味が理解できるようになった経験があります。課外授業でバスで遠足がありました。国語の授業で俳句を作ることが前もって宿題にされていました。ある有名な俳人が選者だということで、国語の専科教員もその宿題に力を入れていたようでした。
 私は遠足の風景などを詠んでも良いものはできないと思い、遠足を意識せずに作ってみようと考えました。そこで休憩時間のある情景を詠みました。
 老いた手にアイスクリーム代三十円
 バスが止まった駐車場に年をとったおじいさんがアイスクリームを売りに歩いていたのを思い出したのです。生徒たちがバスの窓からおじいさんを呼び止めてアイスクリームを買っていた情景です。
 作品を提出してしばらくたって国語の授業で私の句が最優秀賞に選ばれたと発表がありました。そして、私は職員室に呼ばれて、国語の専科教員から「君の作品の老いた手とあるのを老いの手としてはどうかと選者から指導があったけれどどうかな」と言われたのです。私は一生懸命自分の句の説明をしていました。専科教員は「そんなことはわかっている」といらだちの言葉を投げかけました。俳句の知識などなかった私は、専科教員の言っていることががよくわからないままに句を直すことを承知していました。
 最近になって、その違いがわかってくると、落ち込むほど恥ずかしくてたまりません。取り返しのつかない恥ずかしさは思い出すたびに苦しくなるほどです。
 「老いた手」を「老いの手」に直すだけで句が生き生きとしてきます。そこに気がつかなかった私は、最優秀賞に選ばれる価値が無かったと今でも思います。そして言葉の大切さを噛みしめています。