出遭いのお世辞は、わが無償の処世術

1月22日(水曜日)。現在、デジタル時刻は5:01。驚くなかれ、ほぼ決めている定時の起き出しにある。夜明けは早くなり始めているとはいえ、いまだ真っ暗闇である。いつも用意周到のネタなく、寝起きの心中に浮かんでいることを出まかせで書いている。だから文章の脈絡は、常にこんがらがっている。つくづく恥ずかしいやら、また哀れである。きょうの寝起きにあっては、こんなことが浮かんでいた。おとといになるけれど昼間、妻を伴い当住宅地内の道路をトボトボ歩いていた。すると、出会う人たちは自分らを含めてみな、ヨレヨレのお年寄りばかりだった。私は、その光景の寂しさに唖然とした。幸いにも朝夕に歩くと、いくらか異なる光景に出遭うことがある。すなわち、幼児の手をひいたり、猫を胸に抱いたり、犬をひいたりする、中年の人たち(主に女性)に遭遇する。それらは、散歩めぐりの人たちである。私は見知らぬ人であっても出遭えば一瞬立ち止り、あるいは行きずりに、ひと声「可愛いですね」と、呼びかける。すると、互いに笑顔がはじけて、短い会話になる場合がある。会話にはならなくても、「ありがとうございます」という、言葉が返ってくる。たちまち、道路上の二人の気分は和んでいる。もとより、「お世辞」と「からかい」は、まったく五感や意味を異にする。お世辞は人様との出会いを明るくするけれど、からかいは逆に暗くする。だから、こんなときの出会いに際しては、私は意図してお世辞を多用している。もちろん、幼児の姿には真摯に可愛さをつのらせている。ところが、猫や犬の姿には、多くはお世辞である。なぜならこのときの私は、お世辞の効用を決め込んでいるからである。もっと端的に言えば、こんなおりお世辞は、わが無償の処世術の一つである。私の場合、人間以外の生き物で好きと言えるものは、春先に庭中へ飛んで来る「メジロ」くらいである。猫や犬、いや愛玩動物(ペット類)のすべてを好きになれない。だから私には、猫と犬共に飼養(ペット)の埒外(らちがい)にある。しかし、これらを胸に抱いたり、引き連れて歩く人へ出遭えば、それらの姿に進んで、「可愛いですね」のひと声をかけている。散歩、行きずりの人との出会いは、多言を要せずこのひと言で十分である。なぜなら、犬や猫を仲介(出し)にして、人間同士のその場の気分が和むのである。きょうはこんなことを書いて、継続文の足しにするものである。きょうのわが予定には、予約(10時半)の歯医者通いがある。薄っすらと光の見えない夜明けが訪れている。寒気は緩んでいる。なぜ! 私は、こんな小難しい文章を書くのであろう。ネタの無い祟りである。