生きて「30年」

現在、デジタル時刻は、4:42と刻まれていた。当時の私は同時刻、兵庫県尼崎市東園田町にある単身赴任用の借り上げマンション401号室で寝ていた。当時の起き出しはいつも、5時過ぎだった。きょう(令和7年・2025年・金曜日)、スマホを片手にしてこのことを確かめた。「阪神・淡路大震災とは、1995年(平成7年)1月17日(火曜日)5時46秒52秒に発生した兵庫県南部地震により引き起こされた災害のことである」。実際のところは確かめるまでもなく、寸分たがわずわが脳髄の記憶の中にある。なぜならこのときの私は、この地震の確かな罹災者である。その証しには、世の中の人たちから助成金(罹災見舞金)を賜っている。当時の私は、勤務する会社の大阪支店(中央区淀屋橋)において、管理課長の任に当たっていた。住まいは単身赴任を認められて、「阪急神戸線」を頼りに、上記の一室に構えていた。現在、デジタル時刻は5:05である。当時の私は、もちろん一人寝である。不断から私は、寝覚まし時計など不要の早起きである。始業時間(8時30分)に合わせて、そろそろ起き出していた。一人、小さなテーブルを前にして朝食をとり、早やてまわしに出勤準備を整えていた。単身赴任の出勤準備は、もとよりすべてわが行動は、完全無欠でならなければならない。これに向かって、まだいつもの出勤前の行動である。出勤前の最後の行動は、トイレの用足しである。私はトイレの中で地震に見舞われた。棚にぎっしり詰めて並べていた本類のすべてが、頭、肩、背中、いや全身に落ちてきた。台所を除いて一間の部屋には、括りつけの洋服ダンスから、こちらもすべてが部屋の中に散らばっていた。これらのほか、小型のテレビ、小型の食卓(テーブル)などこれまたすべてが、足の踏み場なく、散らばっていた。管理課長は支店長を除けば、内輪の責任者である。わが私生活および勤務の生活共に、この地震以降は長く、つらく一変した。30年前の地震のことを私は、生きて書いている。多くの犠牲者を鑑みれば、やはり幸運と言えるであろう。現在、5:46になった。文章を閉じます。