「書初め」は、躓きと大恥

 新しい年(令和7年・2025年)の正月・元日・元旦には、「御来光」を拝めるほどに、すこぶるつきの好天気が訪れた。ところが私は、御来光を拝むためにあえて、わが家近くの山(天園ハイキングコース)へは向かわず、茶の間のソファに背もたれて、ひねもすポカポカ陽気を満喫していた。しかしながら内心は、必ずしも穏やかではなかった。なぜなら、昨年のこの日このときの地震、そして9月の豪雨と相次いだ能登半島地域の災害を浮かべて、心を痛めていたからである。半面、正月気分に酔うことなく、私にもまだ慈愛の心が残っていたことにはうれしかった。
 きょうは正月三が日の二日目、古来の日本社会のしきたり(行事)によれば、「書初めの日」である。もとより書初めは、真新しい和紙に向かい、身なりをととのえて精神一到、墨したたる毛筆で厳かに書くものである。ところが、私には書初め気分だけが先走り、本来の書初めを真似てスマホ片手に、寝床の中で文章を書き始めたのである。すると、怠け心と指先不器用が相まって、何度もへまを繰り返し、挙句、文章は途中で消え去った。これに懲りて私は、寝床から抜け出しキーを叩き始めている。なぜ、こんな状態になったかと、一つだけ口実(弁明)を言えば、執筆時間にせっつかれて、目覚めるままに寝床で書き始めたからである。ゆえに現在、内心では(きょうは書かなければよかった)と、悔い心まみれにある。すなわち、きょうの私には「箱根駅伝・往路」のテレビ観戦の予定がある。すると私は、スタート時間の午前8時から、1時間ほどま前の7時あたりから、階下のテレビの前に居座ることとなる。おのずから、執筆時間と重なることとなる。だから私は、それを避けたかったのである。もとより「書初め」は、こんな浮ついた気分で書くものではない。私は真似事をしくじったのである。年初より私は大恥をかいて、そしてそれを晒して悔い心まみれにある。わが今年の門出は、「躓きと大恥」である。母校・中央大学の快走で、鬱のな気分が晴れれば万々歳である。