こころ急く、師走入り

 12月1日(日曜日)。いよいよ、ことしの最終月を迎えている。壁時計の針は、私の切ない心情などにはお構いなく、みずからのペースで正確に時を刻んでいる。起き立ての私は、時のめぐりの速さに脅かされて、「ああ無常、ああ無情」という、二つの切ない心境の抱き合わせをこうむっている。人工の時計のみならず自然界は、当月に入った「冬至」(12月21日・土曜日)へ向かって、季節相応にこれまた正確に夜長の時を刻んでいる。
 「ひぐらしの記」を書く私にとっては、ぼうーとして起き出すことは許されない。文章の明確なネタにはならずとも、私はそれに近いものを浮かべて、起き出してこなければならない。このことは、生来凡愚の私にとっては「雲を掴むほどに困難」であり、とても厄介なことである。挙句、起き出すたびに遣る瀬無く、わが心中には(もう潮時、潮時……)と、半ばお助けを乞う、呪文(じゅもん)が渦巻いている。これすなわち、毎日めぐってくる起き立て「時」のわが心境である。ところがきょうは、ことしの最終月への月替わりにあって、この心境はいっそう弥増(いやま)している。叫び喚(わめ)いてもどうなることでもないことに、悶え足掻くのはわが小器ゆえである。
 きょうの起き立てのわが心中には、こんなことを浮かべていた。もとより文章のネタにはならず、まるで孑孑(ぼうふら)のようにふらふらと蠢(うごめ)いて、浮かんでいた。現在のわが身は、日本社会に貢献する労働は皆無である。いや、実際にはお邪魔虫となり、私は様々な日本社会の支えを享受しながら生き長らえている。一方、私の家庭内労働は、二人すなわち老老家庭の現状に特化している。それらは主に二つである。一つは街中・大船(鎌倉市)への、往復定期路線バスを利用しての買い物行動である。そして一つは、妻の生活にたいする支援である。こちらにあっては、妻の主婦業への支援がある。しかし、こちらはあまり役立たず、足手まといのところがある。そして一つには、私がいなければにっちもさっちもいかず、妻の生存自体が危ぶまれるものがある。それはわが買い物行動をはるかに超えて、ずばり妻が生き延びるための支援である。たまの「髪カット」や「昼カラオケ」、はたまた「たまには、外食でもする? 何か食べたいのがあれば、行くよ……」。
 こんなことなど、子どものお使いほどの番外編である。これらを撥ね退けてまさしく主要を為すのは、妻の生存を支えるための病医院へのわが引率行動である。かつての私たちには、この行動はまったくの用無しだった。ところが現在は、病院通いは妻自身にも重荷としてふりかかり、わが生活にも影響をもたらしている。しかしながらこのことは相身互い身であり、たまたまわが家の生活における現在進行形の現象にすぎない。いわゆる、いつ咄嗟に逆転し私にふりかかるかもしれない、心許ないものである。なぜなら世の中にあっては、夫婦にあっては一方の配偶者(夫)の命が早切れにある。このことをわが胸に仕舞い込んで私は、妻との外出のおりには文字どおり、率先行動役を務めているのである。
 生存の三要素、すなわち「衣食住」にあって現在は、それらを上回り夫婦共に医療費になけなしの金をはたいている。もちろん、買い出し時における、「食のコスト」の値上がりには手を焼いている。懲りず何度も書いているけれど、生きること(生存活動)は、確かに人生の一大大事業である。余生縮まる中にあって、その中に楽しみを見つけることもまた、限られた命の為す大事業である。この危ぶまれる事業を助けるのは、天変地異さえなければやはり、自然界の恵みである。
 師走入りの夜明けの空は、新たな地球に住むかのような気分にもなっている、かぎりなく胸の透く日本晴れである。妻は元気に階下で目覚めているであろうか。わが家のきょうの日暮らしの始まり時である。