書かずにおれない、他人様(ひとさま)のご好意

十一月二十六日(火曜日)。ほぼ定時(五時)の起き出しにあり、気分には余裕がある。かてて加えて、これまでの夜遅くまでの野球のテレビ観戦が無くなり、就寝時間が早く、輪をかけて目覚めの気分は良好である。しかし、夜長は「冬至」(十二月二十一日)へ向かい加速度を増しており、いまだ夜明け模様を知ることはできない。きょうは自然界賛歌は脇において、他人様(ひとさま)からさずかったご好意を書こうと思い、パソコンへ向かっている。わが家の貧相な柿の木になった柿の実は、まだ旨味を深めつつある中秋の頃、リスとの戦いに先駆けて、勝って一つさえ残さず食べ尽くした。食べ尽くした後には、旨味の深まりまで、待てばよかった、と悔いを残した。柿の生る風景は、広い当住宅地にあっても、わが家と向かいに建つ大武様の庭中だけである。大武様は先住者の家を買われて、綺麗にリニューアルされた後、六月頃から住まわれている。私の場合、柿は食べて好し、生っている風景を眺めるのもまた佳しの筆頭にある。柿の旨味と眺める風景には最も好都合の晩秋のある日、先方は庭中に立って、私は門口に立って、思いがけなくこんなやり取りに遭遇した。私は柿の生る風景が好きなままに、大武様の庭中に立つ、柿のなる風景をしばし堪能し、奥様のお姿を目に留めず盗み見をしていた。ところが奥様は、文字どおり奥のほうでしゃがんで、何かの作業をされていたのである。奥様は私に気づかれると立って、訝(いぶか)しそうな面持ちで、庭際に近づいて来られた。(これはまずい)。私は心中にこう思い、大慌てで盗み見の怪訝(けげん)をとり払った。奥様との面識はこれまで、引っ込しのおりの初対面における、一度の短いご挨拶言葉だけだった。私は近づいて来られた奥様にたいして、盗み見を詫びて、こう言った。「すみません。私は熊本の田舎育ちで、柿の生る風景が好きです。だから、お宅様の柿の生る風景を眺めていました。ことしは例年よりいっぱい、見事に生っていますよ」「そうですか。柿、お好きですか?…」「はい。夫婦共、生っている風景、食べるのどちらも、大好きです。この頃の買い物では、柿が矢鱈と増えています。長く眺めていて、すみません」「そうですか」。このわが柿の実を強請(ねだ)るような言葉が会話の引き金になり、二つ三つ短い会話を為して、私はいつもの買い物の道を辿(たど)った。するとこの晩、ご主人がわが家の玄関口に立たれて、柿の実をショッピングバグに入れて持って来てくださったのである。そのお返しに私は、数日後に届いたふるさと産新米を少しばかり届けた。ところがきのうの晩、またもやご主人は、二度めの柿を届けてくださったのである。きょう書きたかった一編はこれで書き止めにして、次の二編はこのお便りの引用である。妻が「玄関口の取っ手に下がっていたわよ」と言って手渡したのは、小菊あるいは野菊とも言える、レジ袋入りの草花とお便りだった。忘れかけていたけれどほぼ例年、散歩ご常連(高齢のご婦人)の人から賜るご好意である。「前田様 暑い暑い夏もようやく終わり、秋を味わう時も無く、初冬を迎える頃となってしまいましたね。永らくお目にかかりませんが、お元気ですか。ワイルド感満点のわが家の庭に、菊が乱れ咲くのは 毎年のこととなりました。今年も少し秋をお届けします。楽しんでいただければ幸いです。十一月二十四日、鈴木」。私は読み終えて、文章の素晴らしさにしばし感嘆し、あすはこの文章を「ひぐらしの記」に書こうと、決めたのである。文中にある「永らくお目にかかりませんが」の理由はこうである。このところは雨の日が多く、雨が降らない日は強風が吹き荒れて、風が道路の掃除をしてくれる。また、寒気が強くなり、おのずから朝の掃除は昼間へ移行がちになっている。また文章が長くなってしまった。他人様からさずかった二つのご好意を書き記すと、もはやこの文章は要なしである。ゆえに、ここで指収めをするものである。初冬の夜明けは雨なく、しかしかなり風の強い、淡い日本晴れである。文章を閉じれば私は、お礼の出会いを求めて、道路へ向かうこととする。なんだか、老い者同士の「恋愛ごっこ」みたいである。文章が長くなり、出会いはずれて、会えそうにない。