きょうは「ごちゃまぜ文章」を詫びる

 十一月二十一日(木曜日)。生きて目覚めて、起き出している。わが心中にはふるさと言葉で言えば「だごじゅる」のごとく、いろんな思いが渦巻いている。「だごじゅる」とはさしずめ、日本社会における普遍的なレシピ(献立)に置き換えれば、「すいとん」と言えるものかもしれない。もちろん「だごじゅる」は、小麦粉を練った団子にごちゃまぜの野菜の多さからすれば、ハイカラなスープにはなりきれない代物である。戦時中(わが五歳の頃)はもとより、戦後しばらくは、矢鱈とわが家の食卓にのぼり続けていた。そのせいでトラウマ(精神的外傷)をこうむり、私はスープさえ好むレシピの埒外(らちがい)にある。ところが、今や「だごじゅる」は人気のある食べ物のようである。世の中の健康志向に合って、救われているのであろうか。しかし、不断郷愁まみれの私だけれど、今でも「だごじゅる」だけは、反吐(へど)が出るほどに食べる気はしない。
 渦巻いているいろんな思いにあっては、図らずものっけから最も変なことを書いてしまった。どうしてなのか? はわからない。いよいよ、ごちゃまぜ文章の本番に入る。定時近くの起き出しだが夜長の季節にあっては、外気はいまだ真っ暗闇である。ゆえに夜明けは未だ遠く、空模様を知ることはできない。きのうの目覚めにあっては、冬将軍に打ちのめされて起き出しを渋り、そのまま寝床に寝そべり続けていた。
 生来、私は寒気には弱虫である。きのうは、その証しをこうむったのである。実際には起き出して、パソコンへ向かう気力を殺がれていた。挙句、枕元に置くスマホを手にとり、継続を断たないだけの思いで、文章を書き始めた。しかし案の定、これまた生来不器用の指先が駄々をこねて、文章は尻切れトンボのままに頓挫した。これに懲りて現在は、完全冬防寒重装備に身を包(くる)んでいる。それは自然界の仕業に敗けまいと、人工の暖とり装置である。人間の知恵は大(たい)したものであり、大(たい)して金要らずの着衣にあずかっている。
 知恵ある科学者は夏の間には特に、地球の温暖化傾向へ警鐘を鳴らし続けている。ところがへそ曲がりの私は、このことには常に下種(げす)の勘繰りを続けている。なぜなら、私には冬の間の寒気が身に堪えるからである。同時に私は、本当に地球は温暖化傾向にあるのであろうかという、疑心暗鬼に囚われるのである。できれば科学者こぞって、冬の時期にこそ地球の温暖化傾向へのデータや証しを添えて、警鐘を鳴らしてほしいものである。なぜなら、そうであれば地球温暖化傾向への確信が持てるからである。
 主に夏の間だけの警鐘では、なんだか私には、嘘っぱちに思えるところがある。挙句、地球は温暖化および寒冷化共に傾向を深めているという警鐘であれば、私にも然(さ)もありなんと思うところがある。バカ丸出しを曝(さら)けてまで、こう言いたくなるほどのきのうから続くきょうの寒さである。
 次の思いはこうである。わが命(八十四歳)は疾(と)うに、賞味期限はおろか、消費期限さえも切れている。きのうは、テレビで馴染んでいた二人の訃報が伝えられたのである。一人は、大相撲界における元横綱・北の富士の訃報だった(享年八十二歳)。そして一人は、俳優・火野正平さんの訃報だった(享年七十五歳)。これらにかかわるしんがりの思いは、わが八十四歳にかかわるものであり、わが命の絶え、おのずから「ひぐらしの記」の潮時を覚悟するものだった。もはやわが命短し、寒気に耐えるのもゴールテープ間近にある。
 こんな実のないだらだら文章は、見ただけで読んでくださる人はいないはずである。そう思わないと、書けない文章でもある。スマホ書きは懲りた。パソコンだと指先はちょっぴりスムースに動いて、ようやく夜明け頃にある。雨の夜明けは、冬特有に寒気が酷(ひど)い冷雨(ひさめ)である。