十一月十一日(月曜日)。部屋の中では、頭上から二輪の蛍光灯が明かりを灯し、窓外はいまだ真っ暗闇であり、夜明けはるかに遠い、起き出しを食らっている。八十四歳、私の睡眠時間はいつも極度に短い。睡眠中に悪夢に魘されると目覚めて、そののちは悶々として二度寝を拒まれる。運良く寝つければこんどは、身体現象ゆえに避けられない、頻尿による起き出しをこうむっている。しかし、私には気になる病なく、年並みに健康体である。
妻・八十一歳、病がち、老夫婦の日暮らしにあっては共に、健康体は望めない。夫婦生活は、自分だけが健康体であるだけでは成り立たない。共に健康体であってこそ、夫婦の日常生活は、ようやく心地良く営まれる。つらいところである。相対する妻の衰えぶりを見るのは、堪えて忍びない。ところが一方、「パパは認知症よ!」と言う、妻の言葉が増えている。私自身にはその自覚はなく、「俺は認知症じゃないよ」と、そのつど反撃の言葉を返している。ところが内心では、認知症かな? と、不安をおぼえるときがある。さしずめきのうは文章を書きながら一瞬、この不安が顕在したのである。このときは懐中電灯という言葉が脳髄に現れず、まさしく苦慮、かなりの時間それを思い出すのに苦労したのである。
長年書き続けてきた「ひぐらしの記」は、もはや限界を超えておのずから、途絶の憂き目を見るところにある。イの一番、その確かな証しは、文章を書くには必然を為す、語彙の忘却がある。私は語彙の忘却防止と新たな習得を願って、生涯学習に掲げてきた。ところが、生涯学習はすでに頓挫しており、新たな語彙の習得など夢まぼろしとなり、それよりなにより蓄えていた語彙の忘却に晒されている。自業自得とはいえ、わが身につらい仕打ちである。
文章を書き続けるには、豊富な語彙に加えて、常に精神(心象)状態の安寧が必須である。ところが現在の私は、どちらにも翳(かげ)りが増す、人生の終末にある。そして、この先はいっそう加速度をつけて、どちらも萎(な)えるばかりである。ゆえにこのところの私は、焦燥感に駆られてまるで、最後の悪あがきでもしているかのように、書き殴りの長文を書いている。確かに、そうである。あれれまたもや、文章は乱れ長くなりそうである。ゆえに、意識してここで書き止めである。
わが認知症罹患の有無は、自分自身ではわからない。妻は不断のわが行動や行為を見て、掲示板を覗く人様はわが文章を読んで、知ることである。だけど、こんな文章を書くようでは、私自身「知らぬが仏」では済まされない。曇天の夜明けが訪れている。きょうの日本社会にあっては、衆議院の総選挙を終えて、第二百十五特別国会が開かれて、第百三代めの首相が誕生するという。精神の乱れの無い、正常な首相指名を願うところである。