「立冬」に浮かんだ、ごちゃまぜの三つのネタ

語呂のいい「晩秋」という言葉には、それだけで詩情があって、わが好む言葉の範疇にある。しかし、きのうの「立冬」(十一月七日・木曜日)を境にして季節が変わり、おのずからこの言葉も遠のいた。このことでは、いくらか残念無念である。いや、言葉だけではなく立冬を境に、本格的な寒気の訪れが肌身に沁みて無念である。季節に追めぐりにたいして一々、無念などとほざくのは私に詩心がせいであろう。こちらこそ、確かな残念無念である。きょう(十一月八日・金曜日)の夜明けの天気模様は、まだ知ることはできない(5:32)。ところが、寒気が肌身に沁みて、いよいよ寒気の訪れの自覚は十分にある。寝起きにあっては、いつものようにネタ探しをめぐらしていた。すると、これまたいつものように、まったく浮かばない。それでも私には、書かなければならない寝起きの日課がある。だから、パソコンを起ち上げるとしばし、心中でネタ探しを試みていた。すると、ごちゃまぜに、三つも浮かんだのである。ごちゃまぜだが、我楽多(がらくた)とは言えない。きょうは一つでいいから、もったいなくて、あしたとあさってへ、とって置きたい心境にある。だけどやはり、ごちゃまぜの良さもあり、箇条書きのごとくに、三つを書き連ねるものである。それらは、きのう(立冬)めぐり合わせたそれぞれの事情(事柄)である。先ずはこれこそ、立冬に合わせたかのごとく伝えられた国内(季節)事情である。きのうの気象予報士は、こう伝えたのである。「東京ではきょう、木枯らし一号が吹きました。去年より六日(気象庁は一週間と伝えている)ほど早いです」。これを聞いて私は、何たる季節の妙、さらには机上カレンダー(先人の知恵)の正確さだと、唖然としたのである。次には、長く世界の人々の関心事だった世界事情の結末である。すなわちそれは、きのう伝えられてきたアメリカ合衆国における大統領選挙の結果である。それによると共和党・トランプ候補が、民主党・ハリス候補に勝利し、返り咲きで二度目の大統領に決まったことである。こちらはそっけなく、結果だけを記しておけばこと足りる。さて最後、三つめはわが家にかかわる事情である。もとよりこちらは、そっけなく済むものではなく、あまた書き添えたくなるうれしい事情である。きのうの夕方にあって、ふるさとから今年度産新米の第一便が宅配されて来たのである。三十キロ入りの馴染みのコメ袋を肩に担いだ配達人は、重たくて息を弾ませながらも笑顔を湛えて、上がり框(かまち)に降ろされた。私たちは夫婦こぞって、お礼の言葉を述べた。荷送り人へのお礼の言葉は、私が先にスマホにしがみついて電話をかけた。耳にする声の受話器を持つのは、亡き長姉の長男(甥っ子)である。私から代わった妻もまた、お礼の言葉と互いの近況交歓に長々と話し続けていた。わが家の米は甥っ子の手を煩わして、ふるさと産米の購入にすがっている。これには数々の理由があるけど、すべてはわが一方的理由である。すなわち、ふるさと産米の美味しさ、さらには配達料を含めて、価格の安さはなどには頓着せず、もっぱら郷愁やふるさと慕情の薄らぎや決別を恐れてのことである。これにはこんなわが思いも絡んでいる。それは、わがふるさとに馴染みのないひとりっ子(わが娘)が、わがふるさとを偲んでくれるのを願って、娘宅へも無償の同時配達である。おやおや、三つのことをごちゃまぜに書いてしまい、またまた長い文章になっている。だから、尻切れトンボを恥じず、ここで書き止めである。ネタ無し、ネタ有り、共に文章は、私には手に負えない。立冬、確かな寒気の入り日である。なぜなら、きのうの夜明けの頃は、寒さは感じなかったけれど、昼過ぎから一気に冷え込んだのである。そのあおりを食って現在の私は、寒さでブルブル震えている。前面の窓ガラスを通して眺めている大空は、晩秋の日本晴れに変わり、日本晴れだが鉛色を帯びて、確かな冬空である。