夜明けの小嵐

 単なる日付ではなく、もう10月20日(日曜日)かと、書きたくなる夜明けが訪れている。肌身に酷く寒さをおぼえて置き出し、大慌てで厚地の布の長袖シャツを一枚重ねている。ところが、夜明けの寒さは季節狂いとは言えなく、いや季節相応にまっとうな寒さであろう。いくらか季節狂いと言えるのは、晩秋の夜明けにあっては滅多に見ない、小雨まじりの小嵐が吹き荒れていることである。翻ってこれこそ季節狂いと思えたのは、きのうの真夏並みの暑さだった。きのうの季節狂いの暑さのせいで、夜明けの寒気は季節どおりにもかかわらず、寒がり屋の私から季節狂いの「濡れ衣」をこうむっているのである。季節どおりの夜明けにすれば、とんだとばっちりを受けていると、目を剥いて歯がゆいかもしれない。
 実際のところこんなことはどうでもいいけれど、起きて痛感しているのは月・日のめぐりと、季節の移りの速さ(感)である。日常生活におけるその確かな証しは、これまで繰り返し書いているけれど、服用中の薬を一か月ごとにもらいに行く通院日の訪れの早さである。
 さてきのうはこれこそわが気狂いのごとく突然、いつもとは異なる文章を長々と書いた。私自身はいつも似たような文章に飽き足らず、ゆえに意図してネタを決めて書いたものである。だから、文章の出来不出来にかかわらず書き終えれば、愛(いと)しいものだった。しかしやはり、独り善がりの自己満足にすぎないものだったのかもしれない。だけど一方では、久しぶりにネタを拾って書いたことでは自己満足とはいえ、恥じることはない。なぜならきょうはネタなく呻吟し、もっとみっともない文章を書く羽目になっている。ゆえにここで恥じは書き止めである。
 楽屋話を記すと不断の私は、継続を断たないために常に、無理矢理パソコンを起ち上げている。挙句には体(てい)たらくの文章の羅列や繰り返しになる。だからきのうは、それを断つための試しの『番傘』でもあった。正直にこのことを吐露し、一方では詫びるところである。
 夜明けの小嵐は、季節どおりの本格的寒気の訪れのシグナルであろうか。寒気の訪れと歳月の速めぐり(感)、いよいよダブルの自然界現象(事象)をともなって、わが身に堪える季節の到来である。わが手のろのせいで、「時」は夜明けから朝へ変わっている。