謝意、感謝と謝り

10月11日(金曜日)。昼間に比べて夜間は「冬至」(12月21日)へ向けて、視覚的にも体感的にも日々少しずつ長くなり、そのぶん夜明けは遅くなっている。このところの私は、目覚めて起き出してくる時間にばらつきを被り、とりわけ遅い時間の起き出しには、慌てふためいて心が急いている。もちろんそれは、文章を書く心境をやたらとせっつかれるからである。挙句にはネタを浮かべたり、探したりする余裕を奪われて、いつも同じような寝起き時の天気に絡む文章を書く羽目になり、自分自身飽き飽きし、書き止めを決意した。自分自身の不甲斐なさや遣る瀬無さだけではなく、掲示板を汚し人様へ迷惑をかけるなさけなさが身に沁みているからである。きのうはこんな状態のわが心境をあからさまに吐露し、さらには恥を忍ばず文章に記した。まさしく、恥の「掻き捨て」である。同音異義を用いれば、まさしく「書き捨て」こそ妥当であろう。ところが、「捨てる神あれば拾う神あり」。私は二人の神様、すなわち一人は女神の大沢さま、そして一人は男神の高橋弘樹様に拾われたのである。しかし、救われたかどうかはまだわからない。確かにきのうの私は、決意にすぐに止めを刺そうという心境にあった。ところが、お二人の神様からメッセージ付きのエールを賜り、決意は先延ばし、こちらは恥を忍んでまだ続けようかなと現在、心境が揺らいでいる。しかしながら書けばやはり、様変わりしない文章になることはみずから請け合いである。自然界現象(気象)、すなわちきょうの夜明けは、きのうとはまたっく異常(異質)と思うほどに様変わっている。実際のところきのうの夜明けには、台風並みの雨嵐が荒れ狂っていた。つれて寒気もひどく、大慌てで私は、準冬防寒重装備で身を包んだ。今にもぶり返しそうな風邪は、確かな効き目をおぼえている風邪薬を間を置かず二度服用し、寸でのところで防いだ。きのうと様変わるきょうの夜明けは、荒れ狂った雨風は消え去り、そよ風が視界の木々の枝葉をのどかに揺らしている。見渡す大空はこれぞ秋の日本晴れ! 朝日にキラキラと照らされて、大海原のごとく青く光っている。きのう酷い寒さを感じた肌身は、これまた大慌てで元の着衣に戻しても、寒気はほどよい心地良さにある。パソコンを起ち上げるや否や私は、電子辞書を開いて不断、不確かさをおぼえている言葉を確かめた。なんとそれは、「朝と夜明け」の時の区分である。朝:(古代には、昼間を中心にしたときの表現法と夜間を中心にしたときの表現法があり、「あさ」は昼間を基準にした「あさ」「ひる」「ゆう」の最初の部分)夜明けからしばらくの間、また、正午までの間。夜明け:夜が明ける時。東の空が白んで、うす明るくなってくる頃。あけがた、あかつき。わが寝起きは、あるときは「夜明け」になり、あるときは「朝」へ間延びする。けれどわが命の鼓動は、まだ一日のこのサイクルの中で動いている。84歳、だから幸運な生命を嘆かず、私は恥など「知らぬが仏」で、しばらく「書かない決意」の先延ばしをわが肝に命じている。言葉違いの「銘」ではなく、脳髄からの肝への「命令」である。実のないない文章を長々と書いてしまい、平に御免蒙りたいものである。わが命の鼓動は、夜明けから朝早いところで、「もう、起きろ!」と、病みのない正規鼓動を繰り返してくれている。とてもありがたく、だからそれに背かず、もうしばらくは「もう書きたくない決意」の離散を願っている。普段と違ってこんな良好な気分は、二人の神様に励まされ、同時にようやく訪れた好季節が恵んでいるのであろう。きょうの私は、人と季節の相なすコラボに恵まれて、いつものマイナス思考を遠のけている。しかしやはり、こんな気分の制限時間切れに慄いている。時間があると、こんどは駄文を書きすぎる。早い起き、朝寝坊、どちらも文章は様にならない。