9月17日(火曜日)。さわやかに秋の夜明けが訪れている。しかし、わが気分はそれに背いている。まるで勤務時代に戻ったかのように気分は、三連休明けの休日病さながらにどんよりしている。もとより、確かな病名はなく、寝起きの心象にすぎない。きのうは「敬老の日」(9月16日・月曜日)であって、わが身体はまさしく老体を晒していた。ところが、身体だけではなく精神もくすぶっていた。その延長線上にあって、覇気のない寝起きを被っているのであろう。今の私は、こんな精神状態が常態にならないことを願っている。持ち主が残された空き地には、文字どおり百日を超えて、未だにサルスベリ(百日紅)の紅い花が咲いている。現在は二階でキーを叩きながら、窓ガラス越しにちらつく梢の花を眺めている。いつもは一階の茶の間のソファに背もたれて、これまた窓ガラス越しにしょっちゅう眺めている。主人が去った後に残された植栽に立つサルスベリは、剪定を逃れて思う存分高く伸びている。残された宅地にはほかにも草木類が気ままに蔓延って、見ようによってはむさくるしい状態にある。たぶん、散歩めぐりの多くの人たちは、この光景を見てしかめっつらをしているかもしれない。空き地周りの道路の掃除をするのは私だけである。ゆえに私は、そのたびに往生している。なぜなら、この植栽には金木犀をはじめとして小花を着ける樹木がたくさん植えられて、今やいずれも大きく育ち、押し合いへし合いしながら乱雑を極めている。私は掃除のたびにこれらを見上げて、心中で(早く散ってしまえよ!)と、叫んでいる。ところがサルスベリだけは、わが恨みつらみの埒外にある。いや、サルスベリは、わが掃除に対する「御礼返し」をしているようにも思えている。私は小花を着ける樹木にあっては、不断からサルスベリを最も好んでいる。サルスベリがあるから掃除へ向かうわが怨念は、かなり和らいでいる。当住宅地内のほかの植栽に咲くサルスベリを見ると、おおむね紅い花と白い花に二分されている。すると、当空き地の植栽のサルスベリは、正真正銘の紅い花である。サルスベリ礼賛を書いていると、寝起きの鬱な気分が晴れてきた。せっかくだからこののちは、パソコンを閉じて窓際に立ち、朝日に照る紅い花をしばし眺めることとする。尻切れトンボの自分勝手な文章で、かたじけなく思うところである。だけど、サルスベリの花に託し、老体と鬱な気分を癒すつもりである。やがて訪れる、落ちたサルスベリの小花を掃くのはせつない。