処暑

8月22日(木曜日)。現在のデジタル時刻は、未だ夜明け前の4:09とある。夏の終わりにかけて夏風邪をひき、なおこじらせて浅い眠りで起き出している。例年ひく傾向にある夏風邪にあって、今年は免れたかな? と、いくらか高をくくっていた。ところが、夏の終わりかけにあって逃れず、またもやひいてしまった。私はやはり愚か者、飛んだしくじりをしでかしている。ゆえに、起き立ての気分はすぐれない。私は朦朧頭でしばし、机上カレンダーに目を向けていた。すると、きょうには「処暑」の添え書きがある。手元に置く電子辞書を開いた。【処暑】(暑さがおさまる意)。「二十四節気の一つ。太陽の黄経が150度の時で、暑さが止み、新涼が間近い日。7月の中。太陽暦の8月23日頃に当たる」。太陽事情など珍紛漢紛だけれど、処暑とは暑さの打ち止めの頃を表す気象現象の言葉とは理解できた。確かにこの頃の私は、身体的に夏の出口と秋の入り口を感じている。「処暑」すなわち難しいことはほうむり、「暑さがおさまる日」とだけおぼえておこう。さて、先日の買い物のおりに私は、今時の異常状態の社会現象に遭遇した。私は、コメの買い出しに行きつけのスーパー「西友ストア大船店」(鎌倉市大船)へ出向いた。ところが、普段見ている米棚にコメはいっさいなく、長く空き棚になっていた。私は狐につままれた面持ちで、唖然と立ち竦(すく)んだ。挙句、いろんな思いをめぐらした。その一つには今年度産の新米の出盛りを控えて、早々と旧米を一掃し準備万端、棚替えを目論んでいるのかな? と、思った。だけど、早場米とは言っても体験上、新米の出初めは九月になってからである。なぜなら私は例年、いの一番に出回る千葉県産新米を9月の始めの頃に買っていた。私はレジ打つ、中年女性のところへ歩み寄り、「コメは、まったく無いですね」と、問いかけた。女性はすまなそう表情で言葉を返した。私の前にいた高齢の男性がレジ前から引き返した。女性の言葉はこうだった。「あの人も、米のことを尋ねられたのですが、コメが入って来ないのです」。私はこう応じた。「そうですか。いつもここで買っているものですから、困りました。じゃ、別のところで買います」。私はこれまで何度か買ったことのある、JR大船駅に隣接する「ルミネ」内にある店、「成城石井」へ引き返した。すると、ここには毎度買う馴染みのブランド米があり、5キロ袋を2袋つごう10キロ買った。店の方針なのかここでは、2キロ入りと5キロ入りしかなく、10キロ入り袋は置かれていない。私はそのぶん、割高を被(こうむ)羽目になっている。しかしここは、コメにかぎらず買い物代金が5千円以上になれば、配送を頼んでも送料は無料になる。私はスムースに買って、住所などの伝票を書いて、自宅への配送を依頼した。ここではコメ無しの異変は感じないままに、わが家へ帰り着いた。妻は茶の間で点けっぱなしのテレビを観ていた。時あたかもテレビでは居並ぶコメンテーターを交えて、コメ不足すなわち「令和の米騒動」と題して、喧々諤々にコメ不足の理由が囃し立てられていた。この日にかぎらずコメ不足は、早くから今時の話題になっていたようである。ところが私は、それらの情報に無頓着だったのである。様々な理由が交錯していたけれど、私は一点、こう決め込んだ。それは地震にかかわる恐ろしい「南海トラフ」などの情報が入り込んで、人々が早やてまわしに買占めや、買い置き行動(騒動)に走ったせいであろう。なぜなら、ペットボトル入りの天然水なども、スーパー棚から消えていると言う。防災は良くも悪くも、人間心理を異常状態にするのであろう。現下のコメや天然水の不足は防災に纏(まつ)わり、まさしく今時の日本社会に生じている異変と言えそうである。人いや人間はだれしも、生きることに必死である。書き草臥れた。こんな出まかせの長文、だれも読まないであろう。