エネルギー漲る「夏の街中が好き」

7月22日(月曜日)。いまだ暗い夜明け前にある。いつもの悪夢との闘いを免れて、早く目覚めた。このため、この文章を閉じて、道路の掃除へ向かっても、まだたっぷりと時間がありそうである。だから、だらだらと長い文章になりそうな予感がする。長い文章になればおのずから、見ただけで嫌気がさして、読んでくださる人もいないであろう。それでもかまわないとは言えないけれど、なんだかそうなりそうである。パソコンを起ち上げる前には窓ガラスを開いて、きのう同様に心地良い夏の朝風を招き入れた。夏の朝にあって、無償で手に入れることのできる贅沢である。梅雨が明けたばかりなのに一足飛びに、本格的な夏の炎暑が訪れている。だから、夏の朝風に限ることなく、昼間の夏の風はそれを超えて、これまた無償の贅沢である。しかし昼間の場合は、木陰の風、限定と言えそうである。なぜなら、木陰なく剥き出しの街中の風はやはり、手に負えない暑気を含んでいる。この確かな体験を私は、きのうの買い物のおりの、大船(鎌倉市)の街中でした。私は買い物にかぎらず夏の外出は、比較的涼しい朝のうちと決めている。この自己規制に沿って私は、十時過ぎあたりから門出した。ところが、夏の陽射しはすでに現れていた。視界一面には夏特有のぎらぎらと光っている、透明な外気が充満していた。私は最寄りの半増坊バス停に向かって歩き出した。急ぎ足だった。前方に目にした親子連れは立ち止まったり、戯れながら歩いていた。追いつくと親の男性は、中年に満たない人に見えた。子どもは小学低学年の頃に思えた。子どもはおもちゃとは言えそうにない、頑丈で精巧な水鉄砲を手にしていた。ときおり、草生(む)す傍らの山肌に試しの噴射を試みていた。わが子どもの頃で言えば、蝉取り網と言える夏の遊具であろうか。今の子どもは、水鉄砲をセミやクワガタ目がけて、噴射するのであろうか。こんなことはどうでもいいけれど、いっとき私は、わが子どもの頃の夏へ思いを馳せていた。バスには途中から女子高校生の群れが乗り込んだ。さらには、いつもとは違って若い男女が乗って来て、立錐の余地なく込んだ。車内の冷房はフル回転していた。ところがそれに飽き足らず、身を縮めて顔前に流行りのハンデイファンを向けている人もいた。バスを降りた大船の街は、日曜日のせいか老若男女の人出であふれ返っていた。装いは思い思いに、暑さしのぎの夏のいで立ちである。洒落た日傘を翳す人、ハンデイファンを顔に向けてる人、半袖で肌着まがいの薄手の夏服(シャツ)を着ている人、色とりどりのサングラスで日射しを遮る人、ほかさまざまに夏の街中の人出は、人間模様の坩堝(るつぼ)と化していた。私はハンカチを手にして、ときおり汗を拭きながら歩いた。夏の街中の人出には、様々なエネルギーが漲っていた。確かに、身に堪える暑さだけど、半面私は、エネルギー漲る夏の街中が好きである。なぜなら、人それぞれに暑さと戦い、さらに生活いや生存と闘っているように見えるからである。付け足しにわがきのうの買い物一覧を記すとこうである。キュウリ4本、ナス6個、トマト5個、小粒の温州ミカンの一袋、キイウイ3個、卵10個、アーモンドをはじめとする豆類入りまじりの袋物一つ、台所洗剤1本、ハスの煮物、アップルパイ二つ、チョコレートづくりの洋菓子一本、ウスター醤油一本。これらを大形の買い物用リュックに詰め、詰め切れないものは買い物用の大袋を片手提げにした。いつもは両手提げだけれど、暑さを慮り一袋分を買い控えたのである。約一時間の書き殴りは苦労したけれど、読む人がいないと思えば、推敲は免れる。夜明けて、きらきらと光る夏の朝が訪れている。文章を閉じるけれど、掃除へ向かう時間は、まだたっぷりとある(5:36)。