人間の知恵

7月13日(土曜日)。ふるさとは7月盆の迎え日(火)にある。きのうの雨の名残で、道路は濡れている。そのため、道路の掃除はできずに、仕方なくパソコンに向かっている。仕方なくという表現は止めて、喜んでと書けばいいものの、そう書けば嘘っぱちになる。嘘は、禁物である。だから、本音を言えば、継続を断たないためのパソコンへの対峙である。きょうは、10日間の頓挫の後の再始動3日めである。言うなればこの文章は、生来の三日坊主を恐れて、それを免れるためだけの文章にすぎない。ゆえに、用意周到なネタなど持ち合わせず、ひたすら継続を願うだけのいたずら書きの文章と言えるものである。自分自身、この先、何を書こうかとさ迷っている。人間の生身(身体)には、様々な器官がある。それらの中で、感覚器官として五官を成しているものを順不同に記せばこれらがある。すなわち、耳(聴覚)、鼻(嗅覚)、目(視覚)、舌(味覚)、皮膚(触覚)である。すると、これらの欠陥や劣化に対しては、人間の知恵が補うこととなる。人間の知恵が生み出すものには、かぎりなく様々なものがある。しかし、凡愚の私は、それらを知ることはできない。ゆえに、生身(身体)の欠陥や劣化にかぎり、ごく常識的に浮かべているのは、薬剤と器物である。この二つの中で薬剤は別にして、今、わが知るかぎりの器物を浮かべている。すなわち、人体機能(器官)の欠陥と劣化を補助する、人間の知恵の産物類である。まずはわが身を照顧すれば現在は、メガネ、入れ歯、補聴器の有効さにさずかっている。妻の場合は、今のところ補聴器は要なしだけれど、この先の予備軍にはある。ところが妻の場合は、脳髄には金具が埋め込まれている。これは自転車の後部座席に乗る妻を、私が振り落としたおりの脳外科手術で埋め込まれたものである。50日を超える入院で妻の命は助かり、私は加害者という犯罪者から免れた。わが生涯にわたりまったく消えることのない、つらい事故の後処置であった。私は妻の命を救った金具を見ることはできない。けれど、このときの主治医(今は亡き院長先生)と「大船中央病院」(鎌倉市)には、これまたわが生涯において、尊敬と尊厳を欠くことはできない。妻は二年ほど前の転倒、そして大腿骨骨折にあっては、大船中央病院へ救急車で搬送された。私も同乗した。入院手術のおりの人造骨(人工骨)で妻は現在、歩行が叶えられている。私と妻にかぎっても、これらの人工器物の補助にさずかり、日常生活を営んでいる。もちろん、世の中の人々は、人間の知恵すなわち様々に多くの人工の器物にさずかっている。私の知るかぎりを記すと、こんなものが浮かんでいる。これまた順不同に思いつくまま記すところである。一般にカテーテル(管)と言われ器具は、部位ごとに様々な用い方で使用されている。詳細は知る由ないけれど、心臓の補助器材にはペースメーカーがある。運動機能をよみがえらせる義手や義足がある。先ほどの金具や人工骨もある。総じて、車椅子なども人間の知恵の産物と言えそうである。薬剤を生み出す人間の知恵にもかぎりはない。未知のことを書いて誤りがあれば、伏して詫びるところである。三日坊主で止めれば、心の安寧に行き着ける。しかし、継続を断たないために仕方なく書く文章には、安寧にはありつけない。朝日が射し始めている。道路が乾けば、掃除へ向かうことになる。あさって(7月15日)、ふるさと盆の送り日(火)には、わが84歳の誕生日が訪れる。わが命は劣化を続けている。だけど命を救う適当な器材はなく、対症療法の薬剤頼みである。人間の知恵の開発はまだ残されている。わが死後に有効な器材が現れるかもしれない。それでも悔いることなく、良しとしなければならない。ウグイスは、気分良く鳴いている。わが気分は、どんよりとくすんでいる。