青息吐息で書きました

7月12日(金曜日)。夜明けて、曇り空である。雨は降っていないけれど、道路は雨の跡を残して濡れている。だから、きのう書いた、文章の頓挫の理由の一つは使えず、パソコンに向かっている。二者択一すなわち、今朝は道路の掃除のほうを諦めて、半ば仕方なく文章を書き始めている。文章の継続を阻害する因(もと)は、もとよりこれにとどまらずかぎりなくある。その一つは、時間的制約である。具体的なものでは、寝起きて書く文章と、ほぼ同時間帯に負荷している道路の掃除である。この制約を免れるためには、どちらかを同時間帯から、逸らせばいいことである。だれでもできる、きわめて簡易な対処法である。もちろん私も、これまで何度も試みたし、今も試みている。ところが、その試みは未だに定着をみずに、なさけなくも文章の途絶えの言い訳の一つとなっている。確かに、たったこれだけの文章にあって、時間的制約の理由を持ち出すのは愚の骨頂である。書き殴りに書いて、一度の推敲を試みても、30分ほどで済むものである。しかし、文章の頓挫は防ぎきれない。やはり、文章頓挫の根源は、総じて心(精神)の病・堕落の現象と言える気力の萎えにある。ところがそれも、一時的に現れる「モチベーション(意欲・気力)の低下」では済まされず、今や気力の萎えは常態化している。もちろん、このにっちもさっちもいかない状態を覆すことは生易しいことではない。なぜならそれには人生の晩年を生きる、抗(あらが)えない諸々の事情が絡み合っているからである。「偕老同穴・共白髪」とは優しい響きにあって、極めて惨酷なフレーズ(成句)である。すなわち、日々、配偶者(妻)の衰えを眼前にするつらさである。もとより、一方通行で済むものではなく、妻から見る配偶者(夫・私)の衰えを見るつらさも同居している。きょうは、きのうの一日限りで頓挫を免れるための目的で、こんな実のない文章を書いてしまった。伏して詫びるところである。日が昇り、道路が乾けば、道路の掃除へ向かうこととなる。このところ暑い日が続いたせいで、秋口まで生き延びることができない、朽ち葉が矢鱈と落ちている。掃くには面倒だけれど、掃き捨てるには戸惑いをおぼえる、木の葉の「成れの果て」である。