6月10日(月曜日)。小雨降る梅雨空模様の夜明けが訪れている。気象庁はきのう、四国地方の梅雨入りを宣言した。梅雨空模様を眺めていると、関東地方の梅雨入り宣言もまもなくであろう。梅雨入りに恐れはないけれど、明ければ本格的な夏の季節になる。この点、季節めぐり、いや一年のめぐりの速さには、ただただ恐れて驚くばかりである。
6月のカレンダーには、「夏至」(6月21日)が記されている。6月・梅雨の時季にあっての私は、雨の日の多さによる鬱陶しさではなく、半年・一年めぐりの速さ(感)にともなう、気鬱まみれになるところがある。もちろん、気を揉んでもどうしようもないことではある。
こんなおり、二枚の写真が気晴らしをしてくれたのである。それは平洋子様のご投稿文から賜った、この時期のふるさと情景に添えられていた写真である。なかでも一枚の写真は、田植えが済んだばかりの美しい水田風景だった。たちまちこの写真は、わが心中にかぎりなく、かつさまざまな過去・現在のふるさと情景をよみがえらしたのである。たった一枚の写真につのる思いは無限大だった。父の顔、母の面影、髣髴とする親類縁者の姿。わが家の田植えは日を替えて、親類縁者との「もやい」(共同作業)だった。仕納場(しのば、農作業用の建屋)に蓆(むしろ)を敷いての昼食どきの楽しさは、田植えの苦労に報いるものだった。晴れた夕暮れには、ホタルが飛び交った。雨の日にはみんな、「蓑笠」や雨合羽を着けた。蓑笠では当を得ない。ふうちゃんは「バッチョウ傘」と記した。私は「バンチョウ笠」と、言っていた。ふうちゃん、ありがとう。おかげで、当時の田植えの風景がきらびやかによみがえっている。
きょうの文章は、再びの平洋子様への御礼文と、加えてふうちゃんへのお礼文である。ふるさと慕情がなければ、高齢を生きる価値や甲斐はない。私の場合、梅雨に鬱遠しさはない。梅雨入り宣言を前に、早やてまわしに様々なふるさと情景がよみがえっている。時が経っても、朝日は雲に隠れて、小雨が降り続いている。梅雨は、ふるさと情景を愉しむ季節である。