4月21日(日曜日)。朝日は雲隠れしているけれど、それでもすでに明るい夜明けが訪れている。地震に因る身体の揺れもなく、穏やかな夜明けである。それなのに私は、心中にこんなことを浮かべて起き出している。わがマイナス思考の文章は、確かに人様のやる気(士気)を殺いでいる。このことでは、謹んで詫びなければならない。いや、もう書いてはいけないのであろう。ところが、わがマイナス思考、そしてそれにつきまとうマイナス文章は、わが継続文の根幹を成している。このことを恥じれば、おのずから文章は沙汰止みとなる。終末人生を生きる私には、実際のところ明るいネタとそれをこしらえる能力(脳力)はない。日々、ようよう綴る文章は、生きている証しを担っているにすぎない。だから、マイナス思考の塊ではあっても、これにともなう文章が途絶えた時は、「わが絶命時」である。
生来、わが性癖にはいろんな悪癖がある。もとより、精神のマイナス思考、そして文章を書けば大袈裟な表現、この二つもそれらの範疇に入る。なぜ私は、わが能力の埒外にある文章を書き続けているのであろうか。能無しの私は、こんな苦衷、止めれば済むことである。なさけなくも、この自問を常に繰り返している。このことをほぼ十分間書いて、きょうは書き止めである。なぜなら、マイナス思考の文章が人様に迷惑かけていることを案じて、心身をひととき謹慎すべきと心得ているためである。
繰り返すけれどこのところ、ウグイスの鳴き声が途絶えている。マイナス思考かつそれによるマイナス文章は、ウグイスにまで迷惑をかけて、ソッポを向かれているのであろうか。終末人生はどう生きて、どんな文章を書けばいいのであろうか。雲が切れて、朝日が輝き始めている夜明けにあって、私は嘆いて、思案にくれている。