2月13日(火曜日)。起き立てにあって私は、とんでもない妄想をめぐらしている(4:00)。罪と罰、すなわち罪を犯した者は罰を被る。これは人間社会における最善の掟、すなわち最たる社会規範(道徳)である。道徳に背けばズバリ背徳という言葉があり、おのずから社会(人民)に鋭く罵られる。
きのうの夜、私は茶の間のソファで相対する妻に対して、「気象予報士は、一言も詫びないね」と、言った。妻はキョトンとして仕方なく、「そうね」と、相槌を打った。続いて、「何に、詫びるの?」と、問い返した。
「きょうは、雪が降るはずだったんだよ。ところが、はずれた。だから、一言くらい詫びてもいいと思うよ」
「なんで、雪降るのよ。きょうは、いい天気だったじゃないの。わたしはひとり、見えるところまで出かけて、富士山を見に行ったじゃないの。パパも、行けばよかったのよ。途中で、誘ったじゃないの。だけどパパは、俺は見なくていいよと言って、茶の間のソファに背もたれていたじゃないの。パパって、馬鹿よ。わたしは、知らない人と立ち止り、長い間、富士山を眺めていたのよ。パパも、電話したからくればよかったのよ。パパは、大馬鹿よ」
「おまえは富士山を眺めるのが好きだから、行ったんだからそれでいいよ。おれは茶の間から、椿の花の蜜を吸う、メジロを見るのが好きだから、それでいいよ」
普段の妻は、わが介助や支援なしには、心許ない足取りである。見合い結婚の末に婚約を決めたのちであっても私は、妻の手を取ったり、腕を組んだり、肩を抱くことなど恥ずかしくて、まったく未体験のままにすぎた。それはあか抜けない自分自身にたいし、常につきまとっていた羞恥心からくる躊躇いだった。
ところが現在は、羞恥心を撥ね退けて、手を繋いだり、腕を組んだり、肩を組んだりしている。もちろんこれは、妻の転倒防止のための、やむにやまれぬ切ないわが行為である。
妻は近所に回覧板を回しに出かけた。日頃、これくらいはわが付き添いなくても、近いゆえに妻が率先してやっている。ところがきのうの妻は、回覧板回しが済むと、富士山が見えるところまで出かけていたのである。わが知ることのない、妻の行動だった。わが足であれば、富士山が見えるところまでは、わが家から10分程度の道のりである。しかし、現在の妻のヨロヨロ足では倍強、25分程度はかかる。妻のスマホからわがスマホに、妻の声が入った。
「今、どこにいるのか。また、転んだのか?」
「転んでないわよ。今、富士山を見てるのよ。わたし、富士山を見に来てるのよ。いい天気で富士山は、素晴らしい眺めよ。パパも、すぐに来なさいよ」
「そうか、転んでいなければ、行かないよ。転ばないようにして、帰って来てよ!」
「わたし、転ばないわよ。来ないの? パパは、馬鹿よ!」
電話を切った後のわが内心は、転ぶかな? と、ヒヤヒヤしていた。行けばよかったかな? と、オドオドしていた。
一時間半くらい経って妻は、玄関口のボタンを矢鱈と押した。茶の間にはまるで警報のごとく、音が鳴り響いた。私は大慌てで玄関口へ出向いて、玄関ドアを開けた。妻はニコニコ顔で、「いい天気だったから、富士山が良く見えたわよ」と、言った。私は「転げなくて、よかったね」と言って、抱えるようにして妻を出迎えた。
女性気象予報士は、降雪予報の外れなど、一言も詫びることなくしゃあしゃあと、きょうのポカポカ天気の予報を告げていた。気象庁、気象予報士、そしてウエザーマップなどの気象の専門家は、専門家ゆえの傲慢なのか。天邪鬼の私は、「きのうの降雪予報は外れてしまって、お詫びいたします」という、言葉があってのち、本格的な春の訪れを予報してほしかったのである。ところが妻は、降雪予報の外れなど気に懸けず、いや外れを喜んで、富士山眺望にありついていたのである。降雪予報にかぎらず天気予報全般の外れに、目くじらを立てるのは、ソンソン(損損)なのかもしれない。しかし、社会規範からしたら、やはりすっきりしない気分は山々である。