雪やんで、思うこと

 2月8日(木曜日)。日に日に日長へ向かっている。早くなりつつある夜明け前にあって、寒気は緩んでいる。寒気の緩みは紛れもなく、現在は隠れている太陽のおかげである。台風一過にはおおむね、満天に胸の透く日本晴れが訪れる。降雪や積雪の後によく雨が降り、早々と雪解けをもたらすことがある。しかしながらこれには、おかげという誉めことばはつけたくない。確かに、積雪を溶かす雨にも、少しはありがたみがある。けれど、降りすぎればじめじめした陰気をもたらし、半面、憎たらしくなる。ところが、日光の恵みには外連味(けれんみ)なく、いつなんどきも胸の透くありがたみがある。日光は限りない恩恵をしかも、無償で恵んでくれる。それゆえに私は、日光と言わず隠れている太陽にたいしても常々、「太陽崇拝」に凝り固まっている。
 人の世にあっては、いの一番は太陽(日光)、次には月(月光)、相そろって恵み得るものはほかにない。すなわち、この二つから得られる恩恵は、雲隠れしていようと、姿を現していようと、共に無限である。それなのにカレンダー上には、これらを供養する歳時(記)は見当たらない。このことでは人間は無恥であり、人間の驕りなのかもしれない。
 降雪から積雪に風景を変えたきのうの鎌倉地方には、まるで台風一過のごとくに、胸の透く日本晴れが訪れた。太陽が日光と呼び名を変えて、暖気をともなって地上に満遍なく降りそそいだ。そして、日光の恩恵は、一気に「春」を誘い出していた。
 さて、カレンダー上にはきょうは、「針供養」の添え書きがある。それゆえに私は、手元にある電子辞書を開いた。以下は、指先不自由の私にとっては、きわめて骨の折れる作業だけれど、全文を読んで移記するものである。ネタ不足に悩み、やむにやまれぬいたずら書きとも言える。恥を晒してこんなことまでもしなければ、「ひぐらしの記、単行本、夢の100集」など、夢のまた夢である。心中、なさけなく、ひたすら詫びるところである。
 【針供養】「2月8日または12月8日に、針仕事を休み、折れた針を集めて豆腐やこんにゃくに刺して供養すること。淡島神社に納めるなどする。淡島神社:①日本神話で伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)が生んだという島。②日本神話で少彦名神(すくなびこなのかみ)がそこから常世に渡ったという島。③和歌山市にある淡島神社。最新は少彦名神。各地に分祀。婦人病に霊験があるとされる。また神の名を針才天女とも伝え針供養が行われる。加太神社。淡島(粟島)明神」
 太陽および月にこそ供養が定着してほしい、人の世の習わしである。私は供養がわりに常々、「日光、月光」と言って、神様は要なしに両者を崇めまくっている。針供養にすがり結文が早すぎて、未だ夜明けの光は見えず、残念無念である。