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♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

春真っ只中、花々の躍動感がたくさん伝わってきています(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

寝起きに見た「地震情報」

4月18日(木曜日)。起きてパソコンを起ち上げて、いつもの習いにしたがい、メデイアの報じるニュース一覧項目を見た。すると、日本列島に大きな地震が起きていた。「2024年4月17日23時24分ごろ。震源地は豊後水道で、最大震度は6度弱、被災地は高知県、愛媛県と伝えられている。この地震による津波の心配はありません」。これだけの情報で、テレビによる地震状況、そして被害状況はまだ見ていない。最大震度6弱となれば、被災地の被害状況が案じられるところである。地震列島と異称される日本の国は、日々、いや時を空けず、どこかが揺れている。小さい揺れにはそんなに驚かないけれど、震度5弱以上であればやはり、日本列島に住むかぎり、他人事でなく驚かされる。それが、震度6弱あるいはそれを超えれば肝を潰される。確かに、震度6弱ともなれば、おのずから震源地近くの被災地は、何らかの被害は免れない状況にある。「東日本大震災」(平成23年・2011年3月11日)以降、地震発生には必ず、津波発生の有無が地震情報に添えられるようになっている。今年(令和6年・2014年1月一日)に起きた「能登半島地震」においてもまた、東日本大震災における津波の恐ろしさを再び見せつけられたのである。それゆえに、「津波の心配はありません」という一報は、大きな安堵をもたらしてはいる。出端を挫かれてきょうの文章はここで結文にして、階下の茶の間へ向かい、テレビによる地震状況と、被災地状況を見入ることにする。もちろん、野次馬根性ではなく、被災地の安寧を願って見入ることとなる。まさしく日本列島は、地震をはじめ台風その他の天災列島である。なかでも地震は、しょっちゅうどこかで起きていて、限られた「春の異変」と言えないことは、つらくそして悲しいわが心模様をなしている。

寝起きの心境

4月17日(水曜日)。自然界は晩春ののどかな夜明けを恵んでいる。命の鼓動は休んでは困るけれど、こんな文章は休んだほうがいいのかもしれない。わが文章は惰性に支えられて、ヨロヨロと継続が叶えられている。だから、惰性が途切ればたちまち、頓挫の憂き目を見ることとなる。この恐れは、常にわが身に付き纏っている。ゆえに、おとといときのうの二日にわたりそれを恐れて私は、まるで身体が心不全の病に見舞われたような文章を書いた。すなわち私は、恥を晒してまでも惰性が途切れるのを恐れて、正気で悪あがきの文章を書いたのである。まさしく、狂気の沙汰であった。ところが、なお懲りずに三日目、きょうの文章もその延長線上にある。「ひぐらしの記」は、空虚になるはずのわが老後生活(日常)を支えている。そして、これにちなむ人様との出会いは、わが日常に限りない潤いをもたらしている。もとより、これらのことにおいては、いくら感謝してもしすぎることはない。わが身に余る僥倖、重ねて棚ぼたの宝物である。それなのにこのところの私は、書く気力の喪失に見舞われて、挙句に文章は、恐れている頓挫寸前にある。もちろん、わが独自事情であり、人様に助けをすがることはできず、みずからを鼓舞するより得手はない。きょうはこのことを書いて、惰性を繋げて、頓挫を免れる便法にするだけである。はなはだ、かたじけなく思う、寝起きのわが心境である。こんな私にウグイスは、軽やかな鳴き声で、エールを送っている。ぐうたらなわが心象が揺さぶられる、晩春の素敵な夜明けである。三日続けての無題は虚しいゆえに、打ち止めにしたいけれど、しかし決断は鈍っている。

きのうに重ねて「無題」

4月16日(火曜日)。頃は好し。のどかに、朝が来た。だけど、文章が書けない。いや、もう書けない。わが終末人生は、暗澹を極めている。「身から出た錆」、わが甲斐性無しのせいである。まさしく恥晒し、慙愧に堪えない。重ねて、忸怩たる思いがつのる。書かくまでもない文章を書いた。かりそめのマイナス思考のせいではない。悩める現実がもたらしている。

無題

4月15日(月曜日)。薄く晴れ模様の夜明けが訪れている。季節は晩春へ向かい、やがては風薫る初夏へ到達する。春の季節にあっては、寒の戻りや花に嵐を遠のけて、最も心地良い頃であろう。鶏に代わる早起き鳥のウグイスは、もう鳴いている。ウグイスは、人間界の煩わしい生き様や、わが煩悩など知らぬが仏で、限られたわが世の春の謳歌に必死なのであろう。そうであればいつもとは違って逆に、私からウグイスへ「鳴け、鳴け、大鳴け!」と、エール(応援歌)を送りたい心境にある。ウグイスの必死の鳴き声に同調するのは、わが終末人生がウグイスに似ているせいでもあろう。なぜなら私も、今や短く限られた命の残存を必死に生きている。ウグイスよりわが命は、長そうには思えてはいる。しかしながら、いつ絶える(絶命)か、その恐怖(感)はほぼ同様である。わが終末人生の日常は、もっぱら生存だけが目的になり、半面、その瓦解が恐れをなしている。そして、これにちなむ心境は、時々刻々に様変わる。起き立てにあってきょうもまた、書くまでもないことを書いた。書いて、恥を晒すことは厭わない。けれど、どんな出まかせの雑文であっても、書くことには常に苦痛がともなっている。苦し紛れの文章は、確かなわが能力(脳力)欠乏の証しである。もちろん、こんな文章では生涯学習の範疇には入らず、実のないいたずら書きの汚名を被るだけである。きのうの文章とは違って表題は、まさしく無題でいいだろう。ウグイスは心地良く鳴いている。私は気分沈んで嘆いている。

早起き鳥のお手伝いさん

 前田さん、このところ朝寝坊が続いていますね。良いことですよ。年を取ると睡眠が浅くなると言いますから、ぐっすり眠れているのは若い証しかもしれませんね。早速、早起き取りのお手伝いさんを募集しなければならなくなりますね。でも、起こされて起きるのはちょっと悔しい。やっぱりぐっすり眠れて、気持ちよく起きるのが最高!

ただ書いただけの、無題

4月14日(土曜日)。ぐっすり眠れて、早く起き出している。だから、「早起き鳥」の真似をして、「コケコッコウ」と、鳴きたくなっている。しかし、早起き鳥にはなれない。ゆえに私は、早起き鳥のような社会貢献はできずじまいである。ふるさと時代にあって早起き鳥は、朝の起き出し時刻を告げる大切な役割をしていた。わが家の早起き鳥は、縁の下に飼っていた数羽の鶏だった。鶏の天敵は、産みたての卵を呑む青大将だった。今なお絶えず、恐怖がよみがえる過去の忌まわしい光景である。私いや人間は、常に天変地異と人間以外の生き物の恐怖に晒されて生きている。恐怖の枠から人間を外すことは、人間の驕りなのかもしれない。確かに人間とて、日々伝えられてくる社会現象を鑑みれば、恐ろしい生き物の範疇に在る。社会は、万物の霊長と崇められる人間の集団である。それなのに社会の実態は、必ずしもこの崇敬に見合っていない。なぜなら社会は、人間のしでかす大小の事件のオンパレードである。伝えられてくるもので、小とは言えず腹立たしいのには痴漢行為がある。メデイアは、痴漢防禦策をあれこれと囃し立ててくれている。もちろんそれは、出会いの月4月にからんで人の往来が激しくなるにつれて、痴漢被害が増えること案じるゆえであろう。痴漢行為には、(痴漢ぐらいは…)という、男の驕りがある。この驕りを断つには、痴漢をしでかした者を晒しものにして、社会から抹殺するほどの厳罰主義にするほかはない。なぜか社会は、痴漢行為にきわめて甘いと、思うところがる。手練手管の詐欺行為も、一向に減らない。新コロナ対策の補助金には、偽申告や応急の金を借りても、返済意志のない人が大勢という。すなわち、はじめから「横取り、もらい得」を決め込んでいる悪人多しである。気分直しをしてくれるのは、いつも「ふるさと便」である。ふるさとの甥っ子、姪っ子から、相次いでふるさと便がとどいた。一つは「タケノコふるさと便」、そして一つは「ふるさと産米ふるさと便」である。早速、どちらにもお礼の電話をかけた。すると、二人ともこう言った。「このところは、イノシシがやたらと増えています。被害も増えて、合うのが怖いです。退治する人はだれもいなくて、イノシシは増えるばかりです」。私は一日一日をひたすら生きている。高齢の身を生きるわが生活実感である。わが身のかぎらず総じて社会は、生きる苦しみにある。早起き鳴かずとも、朝がくれば起きなければならない。生きる者の宿命である。今朝は、麗らかな朝日がわが気分を解している。大地揺るがず、生き憎い人間社会のいっときのオアシスである。

♪古閑さんへメッセージです♪

古閑さん、御返事の御投稿どうもありがとうございます*(^o^)/*\(^o^)/
ハナズオウは、見れば見るほど素晴しく感じます☆
山吹は、知ってはいたのですが、八重山吹だけしか知らなかったものですから(苦笑)、古閑さんの画像からはわかりませんでした。
大沢先生がお書きになられた通り、『一重山吹』も存在していたのですね!
今回も良い勉強になりました◯
ありがとうございました*(^o^)/*