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オオニソガラム 高橋恵美子撮影

欲張りの「享楽探し」

5月25日(土曜日)。未だ薄暗い夜明けが訪れている。ただ雨はなく、明ければ晴れの夜明けになりそうである。早起き鳥(鶏)を真似て、ウグイスが鳴いている。ウグイスの就寝時間はどれぐらいであろうか。安眠や熟睡に恵まれているであろうか。それとも二度寝にありつけず、やむなく起き出しているのか。たまには、悪夢に魘(うな)されることもあろう。住み慣れた塒(ねぐら)があるとはいえ、雨・風・嵐など防げず、さらには蛇、カラス、モズあるいは大鳥、野獣など取り巻く野の生活は、さぞかし厳しいだろうゆえに同情心、沸き立つばかりである。ウグイスの鳴き声には、わが起き立ての心身を解(ほぐ)すさわやかさがある。だからウグイスは、わが一日の始動を共にする、運命共同体の位置にある。私は、ウグイスにはいくら感謝してもしきれない。さて、昨夜のナイター・阪神タイガース対読売ジャイアンツ戦(阪神甲子園球場)において、わがファンとするタイガースは、戸郷投手に「ノーヒットノーラン(ヒット無し・無安打)」を食らって、0対1で負けた。しかし、戸郷投手を称えて、悔しさは微塵もない。現在、開催中の大相撲5月場所(東京都墨田区横網・国技館)においては、小結・大の里(二所ノ関部屋)の強さが際立っている。私は(すぐに横綱になるだろう)と思い、さわやかな気分でスピード出世を愉しんでいる。プロ野球と大相撲のテレビ観戦は、共にわが日常生活(茶の間)における享楽を恵んでいる。確かにこの享楽は、人生の晩年を生きる私への棚ぼたのほどこし(プレゼント)である。今や、自力本願では享楽にありつけず、人様(他力本願)すがりである。すると、最も手っ取り早いのは、様々なスポーツのテレビ観戦である。とりわけ私の場合は、野球のタイガース戦と、大相撲のテレビ観戦に張り付いている。かつては国会中継もよく観ていたけれど、今は呆れて観る気がしていない。朝のテレビ小説「虎に翼」と、大河「光る君へ」も視聴はするけれど、スポーツのテレビ観戦ほどには、ワクワク感にありつけない。自分自身が生み出す享楽はないものか。それは叶わず、終生、闇の中に蹲(うずくま)っている。人生の晩年にあって、「享楽探し」は欲張りなのであろう。望んでいた朝日は現れず、雲行き怪しい夜明けである。

ネタ切れを救うのは「望郷」

5月24日(金曜日)。真夜中に目覚めて、二度寝にありつけず、寝床で悶々として夜明けが訪れている。筋肉痛は、すっかり緩解している。ゆえに、不快(感)の一つは消えている。しかし、人生の晩年を生きる私には、まだ多くの不快事がある。ただ、どれもこれもがどう藻搔いても、解決をみないものばかりである。だったら、嘆くだけ大損である。わかっちゃいるけど、嘆くのはわが生来のマイナス思考の祟りである。ネタのない文章は、ほとほと哀れである。パソコンがなければ、こんななさけない文章は書かないで済むのに。恨みは、とんだ的外れである。生きていればネタは、あちこちに転がっている。それを拾いきれないのは、わが能力(脳力)の欠乏のせいである。つくづく歯がゆいと思う、寝起きのわが心境である。いつも、ネタ無しを真っ先に救うのは望郷である。望郷には、歳月の隔たりはない。いや、歳月が遠くにあればそのぶん、望郷はいや増してくる。心象の醸す情念は、確かに人間のみがさずかる特権である。故郷には今は亡き、父、母、きょうだいたちがいた。現在は、たくさんの甥や姪たちがいる。これらこぞって、わが望郷の念をつのらせる。望郷の念は、人にかぎるものではない。人を取り巻く、山河自然が輪をかける。わが家の庭先から、始終眺めていた借景「相良山」。わが家の裏を流れている「内田川」。わが家の前景そして後景に広がる田園風景。春は菜の花に飛び交うモンシロチョウ。畦道や原っぱに萌えるツクシンボ。クヌギ林のクワガタ捕り。里山のメジロ落とし(捕り)。梅雨の合間の田植えやホタル狩り。夏は内田川の水浴びと魚取り。秋は指先に止まる赤とんぼ。冬は家族そろって、炬燵の中での炭火餅焼き。どれもこれもが望郷を掻き立てる。きょうのネタ切れは、望郷に救われたのである。ウグイスが鳴いている。望郷を繋げれば、縁の下の鶏の鳴き声、座敷の柱時計の音、共にも懐かしく望郷を掻き立てる。朝日輝く、のどかな朝ぼらけである。無念、後れて、眠気が襲っている。

朝が来た

5月23日(木曜日)。曇り空を薄めて、朝日が射し始めている。梅雨入り宣言を控えて、束の間ののどかな朝ぼらけなのかもしれない。ウグイスは、朝っぱらから猛烈に鳴いている。「梅雨入り近し」を体感し、焦っているのかもしれない。気象庁はおととい(5月21日)、沖縄・奄美地方の梅雨入りを宣言した。昨年より十日ほど遅いという。ところが私は、先日の文章でこれより先に、沖縄県の梅雨入りのことを書いた。もちろん、わが嘘っぱちではなく、それはメディア情報に基づいている。しかしながら省みれば、気象庁の正規の宣言ではなかったのかもしれない。すると、私は騙されて恥をかいたことになり、ここで詫びることとなる。もとより、恥晒しは厭わない。けれど、恥晒しを厭わなくなれば人間(私)は、生きる価値はなしとは言えないが、もはやおしまいである。そして先駆けて、こんな文章を書き続けるのは、もうおしまいにしたくなる。これまでの私は、文章書きを何度か、昼間への移行を試みた。しかし、すぐに元の木阿弥なり、目覚めて寝起きの文章書きに復している。わが生来の三日坊主の祟りである。挙句、執筆時間の切迫に苛まれて、体(てい)を成さない文章を書き続けている。こんな言い訳をする現在の心境は、なさけなくみすぼらしい状態にある。究極、面汚(つらよご)しの継続だけの文章に成り下がっている。これまた、詫びるところである。ここで文を閉じればまさしく面汚しである。ゆえに、現下の日本社会の世相の一端を書き留める。すると、真っ先に浮かぶのは、いろんな物の値上がりである。これにちなんできのうは、この秋から郵便料金の値上げが予告された。身近な手紙や葉書、その他諸々の料金が大幅値上げである。私はすぐに、大沢さまのご好意へ思いを馳せた。これまでの私は、大沢さまにはいろんなところで、郵便料金の無償(ただ)にあずかっている。そのたびに感謝と同時に、わが気分は申し訳なさで沈んだ。ゆえに値上げののちは、「ただ」は改めなければならないと思う。このことを記して、文章は結文とする。政府は物価の値上がりに見合う、給料や賃金の上昇要請に躍起である。ところが、日本社会にあっては、給料や賃金にありつけない人多しである。ゆえにこののち、格差社会はいや増すばかりである。このところは、その走りと思える凶悪事件が増えている。政府には党利党略が見え透いた、給料や賃金の上昇要請はほどほどにして、悪の根源(物価上昇)を断つ舵取りを願うところである。ウグイスはいいなあ…、物の値上がりを知らず、鳴くばかりである。

賜った「感動と刺激」

5月22日(水曜日)。目覚めて、生きています。曇り空の夜明けが訪れています。学童時代の「綴り方教室」がよみがえり、それを真似て幼稚な作文を書きます。題材はきのうのバスの中で遭遇した光景です。きのうの私は、いつもの買い物の街・「大船」(鎌倉市)へ、昼過ぎから出かけました。用件は、文字どおり買い物です。帰りの背中の大きな買い物用のリュックは、膨れてダルマのようになっていました。さらに両手には、わが手に馴染んでいる布の買い物袋を提げていました。こちらにも、両手に限界の重さの買い物を提げていました。バスの始発の停留所では、先頭から十番目辺りで並びました。三時近くの昼間、立って並んでいるだけで、額には汗が滲みました。それでも、汗を拭く動作はできません。きのうは、特段に気温の高い日でした。もちろんそれは知り、私は薄手の半袖シャツで出かけました。十分ほど待って、バスが入線して来ました。私はもはや、老人用へ成り下がった特割の定期券を運転士に翳して、ワンコイン(百円)を支払機へ落とし、最後部座席へ進み腰を下ろしました。この座席は四人掛けです。真っ先に腰を下ろした私は、それでも身を縮めて、リュックや両手の買い物袋をわが膝にこじんまりと纏めました。ようやく、ホッとしました。次々に乗客が乗り込んで来て、車内の座席は埋まり、立つ人が増えました。後部座席にはいち早く、四人が並びました。私は身を竦めて、隣の人に席を空けました。隣はご婦人です。ゆえに、お姿をジロジロと見るわけにはゆきません。バスはエンジン音を響かせて、発車しました。ようやく、隣のご婦人の顔と頭髪を盗み見しました。顔には皺を刻み、頭髪には白髪が多く、私と同年齢(83歳)とあたりと、目鼻を付けました。私は車内に馴染み始めました。ご婦人はすばやく本と手にとり、ページを開かれました。私は横目を逆立てて、開かれたページに目を落とし続けました。この行為は気づいて、下車するまでの約二十分強続きました。わが下車する「半増坊下バス停」が近づくと私は、ブザーを押しました。ご婦人はまだ先へ進まれるため、気づいて横滑りなられて、私に道を空けました。ご婦人が乗車されてすぐから、ここまで開かれていたのは、分厚い英語の参考書でした。開かれていたページには、B+形容詞や副詞と書かれていました。すなわち、目を覆いたくなるような難しい「英語の構文例」が並んでいました。降りかけに初めて、私はご婦人へ声をかけました。「素晴らしいですね。英語の難しい構文例ですね。盗み見をしていました」「好きなものですから…」。感動と刺激をおぼえて私は、ヨロヨロと降車口へ向かいました。ところがそのとき、扉が閉まりそうになりました。私は大慌てで、「降ります」と、大叫びしました。再び、降車口のドアが開きました。降りると体勢をととのえて、わが家へ向かいました。再び額に汗が滲んで、こんどはタラタラと道路へ落ちました。初見のご婦人は、私に感動と刺激を恵んで、なおページを開いたままに、次のバス停かその先で下車されたはずです。循環バスのこの先のバス停は、あと二つです。曇り空は、胸の透く朝日の輝きに変わっています。

♪前田さんへメッセージです♪

筋肉痛が緩解してよかったですねーー*(^o^)/*\(^o^)/
きょうも前田さんへ”大大大エール”を贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

筋肉痛は緩解

5月21日(火曜日)。目覚めると部屋の中には、昼間の光と思わす、満天晴れた朝が訪れていました。満腔は気分よく緩んでいました。ただそのせいで寝過ごし、執筆時間の圧迫を被っています。ゆえに、文章は書けず、諦めました。ウグイスは鳴いています。私は泣いています。だから、一つだけうれしいことを記して、文章を閉じます。他事ながら、筋肉痛は緩解しました。

♪古閑さんへメッセージです♪

古閑さん、アドバイスをありがとうございます*(^o^)/*
いろいろ試してみたい、と思います。
大切に育てます♪♪

高橋さんへ

 高橋さん、クリスマスローズと、くちなしの花を購入されたんですね。大事に育ててください。我が家でもくちなしの花は地植えであります。ネットで見たところくちなしの花は外に置くのがおすすめと書いてありました。その他にも水やりや肥料等書いてありましたがここではしつこくなるので省略します。

♪HIROKIのタレント日記♪

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《今頃クリスマスローズ&2代目くちなしを購入!!》
この『現代文藝社の掲示板』の御常連様で、いつも『庭の花』と題して、綺麗な花々の画像をたくさん投稿してくださる古閑忠義氏の影響”大大大”で、今頃(笑)クリスマスローズを購入しました(大笑)。
本当は、リアルタイムの冬季に購入したかったのですが、小さなポットでの販売しかなく、大きな鉢が欲しかったぼくは泣く泣く見送っていました↓↓
しかーし!! この時季に及んで、いきなり1鉢だけ置いてありましたので、2代目くちなしとともに迷わず購入しました!!
開花の時期を過ぎていますが、今年の冬の花盛りを目指して大切に育てて行きたいと思います。
花屋のおねえさんに「何故この時季に販売しているの?」と尋ねるも、「はて〜〜?? 」「さて〜〜??」と、スッとボケられてしまいました(大笑)。おそらく売れ残り? だったんでしょうね(笑)。
初代くちなしは、植え替えたにもかかわらず、枯れてしまいました↓
春〜夏の西日は、花々にとっては強烈過ぎるようで、初代くちなしは、これが原因ではないかな、と思っています。
くちなしは半日陰でも育つ、そうなので、2代目は、二重カーテン越しの空間に置いて、晴天の日は、午前中だけ日に当てよう、と考えています。
以上、今頃クリスマスローズ&2代目くちなし購入の話でしたーー♪♪

よみがえる、ふるさと慕情と肉親愛

5月20日(月曜日)。雨の夜明けの空を静かに眺めながら生きている。今や「ひぐらしの記」は、生きている証しを表すだけの文章に成り下がっている。なさけなく、恥ずべき状態である。しかし、恥をかくことは厭わない。なぜなら、恥晒しを恥ずかしいと思えば、もとよりこの世にわが生存はない。私にかぎらず人みな、生きる苦しみに耐え、恥をかきながらこの世に生きている。人々の生き様は、日々メディアを通して伝えられてくる。国内外の情報において、それらを見聞すれば、そう思いたくなる「人の世の業(ごう)」である。嗚呼、起きて、私はこんな愚の骨頂のことを書いている。それでも、机上に頬杖をついて、雨の夜明けを眺めているのは幸運である。なぜならやがて、病床に横臥すればこれしきのことさえできない。頬杖をついて物思いに耽っていると、音なくそぼ降る雨のせいなのか。来し方の様々なことがよみがえり、浮かんで来る。真っ先に浮かんだのは、梅雨入りにかかわるふるさと慕情である。沖縄県はきのう、梅雨入りした。すると、同じ九州圏にあるふるさと・熊本県の梅雨入りも、まもなくであろう。よみがえる梅雨入り前の村人たちの仕事には、麦の刈り取りと収納がある。それが済むと近づく田植えに備えて、苗床作りがある。この後は梅雨、いや雨を頼りにして田植えが始まり、田園風景はしだいに美的水田風景を成してくる。梅雨が鬱陶しいとか、仕事が忙しいとか言っておれない農家の、雨すがりの半ばうれしい好季節である。寝起きの瞼の中に、父と母の姿、姉や兄の面影が浮かんでいる。生きている私がさずかる、ふるさと慕情と肉親愛である。