掲示板

明けましておめでとうございます

坂本弘司撮影

ショートショートを投稿させていただきます

いつまで続くかわかりませんが、文章の訓練のために不定期で作品を投稿させていただきたいと思っています。
駄文ですが、よろしくお願いします。

♪古閑さんへメッセージです♪

はい、お菓子のポッキー&プリッツの日で間違いありませんo(^-^)o

ありがとうございます。

 大沢さん、花の写真の感想ありがとうございます。いつも暖かい感想をいただき嬉しいです。

ありがとうございます。

 高橋さん花の写真の感想ありがとうございます。ポッキー&プリッツの日って何のことだろうと一寸分かりませんでしたがお菓子のことだったんですね(多分)。昨日は11月11日、やっとわかったような気がします。これで間違いないでしょうか。

古閑さんちのお庭

 まだお庭にお花があるんですね。このところの朝の寒さは、やってくる冬将軍を思い出させる寒さです。でも小さなお花が群れて咲いているのを見ると、そこだけほのぼのと暖かさが宿っているようで、思わず手をかざしてしまいたくなります。

題無しの番外編

大沢さまのご好意に背くまいという一心で、我楽多(ガラクタ)のわが脳髄に鞭打ち、私は長い間「ひぐらしの記」を書き続けてきた。できれば過去形にせずこの意思は、この先へ繋がることを願っている。ところが、この意思を阻むものは他人事(ひとごと)にはできず、自分自身の中にのみあまたある。総じてそれらは、悔い心から生じている泣き言である。それらの中ではもはや、悔いて泣いたところでどうなることでもないものばかり、人生の終末現象から生じている。それらの多くは余生の短さを鑑みての諦念(あきらめ)であったり、さらにはモチベーション(意識、意欲)の低下だったりする。ところが、今の私にはこれらに抗(あらが)う克己心が欠けている。おのずから日々の文章書きは、風前の灯(ともしび)に遭い、今や頓挫寸前のところにある。こんな状態にあってこれまでの私は、わが心境を曝(さら)け出し、まるで呪文(じゅもん)のごとく、「潮時、もう潮時」と、言葉を繰り返してきた。なさけなくもこの状態は今も変わらず、ゆえに私は、突然の文章の途絶えに怯(おび)えている。余命短い老境の身とはなさけなく、すべてにわたりこんな切ない状態である。これに次いで文章の頓挫を危惧しているものでは、掲げてきた生涯学習の途絶えからこうむっている。それはきのうの文章の二番煎じになるけれど、わが生涯学習に掲げている「語彙学習」の途中頓挫にある。まさしく「後悔先に立たず」である。今になって続けていればと、悔い心が弥増(いやま)している。もとより語彙不足、そしてことさら嘆くのは、蓄えてきた語彙の忘却の速さである。子どもの頃の私は、近場で見ていた大工さんの様々な道具の使い方に見惚れていた。逆に、道具がなければ大工仕事は、成り立たないことを知った。このことが、子ども心に焼き付いていた。このことがあって私は、文章の六十(歳)の手習いを発意したおり、さらには定年後を見据えて、わが生涯学習には「語彙の学び」を掲げたのである。すなわちそれは、文章を書くには「語彙」を大工さんの「道具」に準(なぞら)えていたのである。するとこのことは、かなりの成功を収めた。ところが生来、意志薄弱と三日坊主の抱き合わせの悪癖にある私は、途中挫折をこうむったのである。このところの私は、両者の祟りに遭って、文章書きには難渋を極めている。挙句、常に頓挫のお怯えに晒されている。ゆえに書き終えると私は、駄文および雑文など一切お構いなく、ホッと吐息している。いや、わが瞬時の安息でもある。きのうの文章には思いがけなく、かつうれしいことには、大沢さまから追っかけの文章が添えられていた。この中の一行を再記すればこうである。「私は本を読むことをあまりしてこなかった」とあった。大沢さまでもこうなのか! 私には驚きと共に、自己癒しが湧いたのである。同時に、大沢さまにさえ悔い心があれば、わが悔い心など、木っ端恥ずかしい思いにとらわれたのである。ところがなんだか、勇気が湧いた。大沢さまからさずかるコメントには、きのうだけではなくいつも、わが文章に勇気づけと綾(あや)をさずかっている。十一月十二日(火曜日)。のどかな夜明けが訪れている。きょうの文章は、起き立てに綴った、題無しの番外編である。

♪古閑さんへ『庭の花』の感想です♪

古閑さん、♪ポッキー&プリッツの日♪の御投稿どうもありがとうございました*(^o^)/*
寒くなってきても、♪ポッキー&プリッツ♪が種類豊富なように、☆古閑さん庭園☆も多種類で、たいへん嬉しく思っています♪♪♪♪

書き表せない苦悩

文章を書いていて頭に浮かんでいる思いを書き綴る表現が浮かんでこないことが度々ある。この思いを表現するための語彙がどうしても浮かんでこないもどかしさは、年々増している。私は本を読むことをあまりしてこなかった。その報いなのであろう。表現不足、語彙不足、これは物書きにとって致命的である。井上ひさし氏の言葉「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをおもしろく」を私は座右の銘にしている。けれどこれを実行することは至難の業なのである。

わが認知症の罹患は、妻や人様が知ること

十一月十一日(月曜日)。部屋の中では、頭上から二輪の蛍光灯が明かりを灯し、窓外はいまだ真っ暗闇であり、夜明けはるかに遠い、起き出しを食らっている。八十四歳、私の睡眠時間はいつも極度に短い。睡眠中に悪夢に魘されると目覚めて、そののちは悶々として二度寝を拒まれる。運良く寝つければこんどは、身体現象ゆえに避けられない、頻尿による起き出しをこうむっている。しかし、私には気になる病なく、年並みに健康体である。妻・八十一歳、病がち、老夫婦の日暮らしにあっては共に、健康体は望めない。夫婦生活は、自分だけが健康体であるだけでは成り立たない。共に健康体であってこそ、夫婦の日常生活は、ようやく心地良く営まれる。つらいところである。相対する妻の衰えぶりを見るのは、堪えて忍びない。ところが一方、「パパは認知症よ!」と言う、妻の言葉が増えている。私自身にはその自覚はなく、「俺は認知症じゃないよ」と、そのつど反撃の言葉を返している。ところが内心では、認知症かな? と、不安をおぼえるときがある。さしずめきのうは文章を書きながら一瞬、この不安が顕在したのである。このときは懐中電灯という言葉が脳髄に現れず、まさしく苦慮、かなりの時間それを思い出すのに苦労したのである。長年書き続けてきた「ひぐらしの記」は、もはや限界を超えておのずから、途絶の憂き目を見るところにある。イの一番、その確かな証しは、文章を書くには必然を為す、語彙の忘却がる。私は語彙の忘却防止と新たな習得を願って、生涯学習に掲げてきた。ところが、生涯学習はすでに頓挫しており、新たな語彙の習得など夢まぼろしとなり、それよりなにより蓄えていた語彙の忘却に晒されている。自業自得とはいえ、わが身につらい仕打ちである。文章を書き続けるには、豊富な語彙に加えて、常に精神(心象)状態の安寧が必須である。ところが現在の私は、どちらにも翳(かげ)りが増す、人生の終末にある。そして、この先はいっそう加速度をつけて、どちらも萎(な)えるばかりである。ゆえにこのところの私は、焦燥感に駆られてまるで、最後の悪あがきでもしているかのように、書き殴りの長文を書いている。確かに、そうである。あれれまたもや、文章は乱れ長くなりそうである。ゆえに、意識してここで書き止めである。わが認知症罹患の有無は、自分自身ではわからない。妻は不断のわが行動や行為を見て、掲示板を覗く人様はわが文章を読んで、知ることである。だけど、こんな文章を書くようでは、私自身「知らぬが仏」では済まされない。曇天の夜明けが訪れている。きょうの日本社会にあっては、衆議院の総選挙を終えて、第二百十五特別国会が開かれて、第百三代めの首相が誕生するという。精神の乱れの無い、正常な首相指名を願うところである。