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坂本弘司撮影

♪たまごさんへメッセージです♪

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たまごさん、御返事の御投稿をどうもありがとうございます*(^o^)/*
たまごさんの好きな色が赤やワインレッドである事はじゅうぶんに承知しておりますよーV(^-^)V
近いうちに、”やまや”や”ドン・キホーテ”へいっしょに行って、赤以外の閻魔があるかどうか見に行きましょうねーー♪♪

余談になりますが、画像は、弟から送られてきた弟が好きな”魔王”です。
芋焼酎のようですが、従兄弟への贈り物として、手渡したりしていましたよー。

高橋さん、ご感想ありがとうございます。

私の呑む閻魔はラベルが赤いですが、同じ閻魔という銘柄にもいくつかの種類があるらしく。
赤以外の閻魔を販売している店を、近所に見つけることができなかったので、見たことはないのです。
もちろん、一番は呑み心地ですが、私の好む閻魔のラベルの色が、これも私の好む色である赤、というのも惹きつけられる理由のひとつかもしれません。

♪たまごさんへ『麦焼酎、閻魔』の感想です♪

『麦焼酎、閻魔』は、ラベルとボトルキャップが赤なので、写真写りが良く、写真映えがしますね。
お味もよろしいとの事で、なによりです♪♪

麦焼酎、閻魔

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麦焼酎をよく呑みます。
お酒は、それほど詳しくないのですが、樽貯蔵酒という焼酎が人気らしく、私もよく楽しんでいます。
長期熟成させることで出る、まろやかな味わいとオーク樽から滲み出す成分による、バニラの香りや甘い味がするというのが、特徴です。
近所で購入できる貯蔵酒は、琥珀麦の舞、隠し蔵、田苑、閻魔、といったあたりなのですが、長いこと、琥珀麦の舞のスモーキーな味わいや、他の貯蔵酒の熟成されたまろやかさを楽しんでいました。
ところが、老松酒造の閻魔を初めて呑んだ時、一口目で、ほのかに感じる甘さに衝撃を受け、大好きになってしまいました。
他の貯蔵酒もバニラの甘い味や香りがするとのことですが、私は舌バカなのか、あまり感じられず、閻魔で初めて実感した次第です。
長い冬の夜の徒然に味わっています。

きょうは休むべきだったのかもしれない

2月8日(土曜日)。大雪予報の切れにある今週末が訪れている。わが気象音痴の当てずっぽうにすぎない。大雪も峠を越えて雪国は、来週あたりから一気に春の装いになるであろう。なぜなら季節は、長く後戻りをすることなく、先々へめぐって行く倣(なら)いにある。現在のデジタル時刻は、5:28と刻んでいる。鎌倉地方には雪景色は見えないけれど、それでも寝起きのわが身体は、予報に違わず寒気にブルブル震えている。しかしながらこの寒気も、もうしばらくの我慢で済みそうである。ちょっとだけだが私は、それに耐え得る気力は残している。もとより、寝ても覚めてもなど無理だけれど、文章書きをみずからに強いている私は、常に心中に語彙を浮かべている。もとよりそれは血気盛んに前向きにではなく、至って後ろ向きに語彙の忘却逃れのためにすぎない。きょうの寝起きにあっての私は、「気の毒」ということばの字面(じづら)の摩訶不思議さを浮かべていた。もっと端的には、「毒」という語句に惑わされていた。きのうは「ずる休み」の文章を書いた。ところがきょうは、こんなことを書くようでは本格的に休むべきだったのかもしれない。きょうの文章は、このことに起因している。私は突然の道路の陥没事故に遭われた人に対して、甚(いた)く「気の毒」におぼえている。机上の電子辞書を開いた。以下は「気の毒」にかかわる電子辞書の丸写しである。手先不器用の私には、つくづく厄介な作業である。【「気の毒」(心の毒になることの意)。①自分が難儀な目に会って心をいため苦しむこと。困ること。きまりがわるいこと。②他人の苦痛・難儀についてともに心配すること。同情。③相手に迷惑をかけてすまなく思うこと。また、感謝やお礼の意を表すのにも使う】。きょうの私には、どれもが当てはまる「気の毒」である。朝焼けの夜明けがのどかに訪れている。見えようない北の空(埼玉県八潮市)へ思いを馳せて、「気の毒に思う」心情が弥増(いやま)している。こんな毒にかぎれば、服(の)んでいいのかもしれない。

♪大沢先生へメッセージです♪

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大沢先生、感想の御投稿をどうもありがとうございます。
植え替えた桃花種は、ぜひぜひ球根が育ってほしいです!!
赤花種は開花しましたが、どういう訳か茎が伸びてこなくて、葉に挟まれて思うように開花できない状態のようです(困)。

高橋さんちのお花畑

 植え替えたヒヤシンスの花が終わった茎を切ってさっぱりとしましたね。緑の葉が顔をのぞかせています。これで球根が育つといいですね。ほかのポットの花も咲き始めましたね。蕾も見えます。お留守番の花たちは、高橋さんのお帰りを待っていてくれるのですね。いじらしいですね。

ずる休み

2月7日(金曜日)。寒気を恐れて起き出せず、スマホ片手に「きようは書けません」と書いている。寒気のせいにはできず、気分も萎えている。きのう文章では文意に沿ってわざと、『北国の春』をもじり『雪国の春』と書いた。だから、訂正せずにほったらかしにした。だったら後の「北の空」は「雪国の空」にすべきだった。スッテンコロンをスッテンドロンとも書いた。これも意識して書いたものであり、自分的には納得できるものである。しかし、きのうの文章は認知症を疑われるものだった。独り善がりの文章を恥じて、きようはパソコンへ向かえない。現在、デジタル時刻は4時30分。二度寝ができそうである。

汚れてくれるな! 「雪景色」

2月6日(木曜日)。恐れていた雪は降っていないけれど、この冬で最も寒気の鋭い夜明け前にある(5:15)。だからと言って私は、多雪地方や地帯の人たちの雪降りの難渋を慮(おもんぱか)れば、寒気にたいし恨みつらみや泣き言は言えない。熊本県に生まれ、成人になると埼玉県や東京都で一時住み、のちに多くは神奈川県に住んでいる。もちろんこれらの県は、日本列島にあっては多雪地方から外れている。ゆえにこれまでの私は、雪の怖さあるいは魅力(楽しさ)は未体験のままである。だからもとより私は、自然界の雪が人間界にもたらす、災害あるいは有益など、今なお十分に知る由(よし)ない。確かに私は雪の恩恵にすがり、これまで二度ほどスキー場へ出向いて、スキーいや「雪滑り」を試みたことがある。ところが、滑るたびにスッケンドロンと転び、(止めた、もう懲り懲り!)と、スキーの楽しさは未体験である。ようやく、雪降りや雪の日の楽しさは、生誕地熊本における子ども時代にのみ限られるだけである。すなわち、当時の雪の日によみがえる思い出は、雪ダルマづくり、隣近所の遊び仲間たちとの雪合戦、さらには新雪をドンブリに掬(すく)って来ての、炬燵(こたつ)に入っての砂糖まぶしの美味さである。おとなになり、そして都会に住むようになるとこれらの楽しみはなくなり、ゆいいつ雪降りや雪の日の恩恵は、雪景色の眺めだけになった。半面、これまでの私は、雪害をこうむることなく過ぎて来た。悪さだけをする地震、雷、竜巻などは別にして、雨や風は人間界に災害をもたらばかりではなく、人間のほか動植物にも有益をもたらすものがある。卑近なところでは、水力および風力によるエネルギー(発電)の恩恵がある。天水は土壌を潤し、人間ほか動植物のエネルギー源を成している。翻って雪の有益には、どんなものがあるのであろうか。すると、わが心中に浮かぶのは、先ほどのスキー(場)にまつわること、雪解け水の潤し、雪景色のロマンくらいしかない。ところが、このところのテレビが映し出す多雪地方や地帯における大雪状景は、わが思いを木っ端みじんに壊している。このところ否応なく観ている、多雪地方のつらい映像である。だから私は、こぶし咲く『雪国の春』を声高らかに歌う日の訪れを待ちわびている。日本晴れの夜明けを、喜んでいいのであろうか。私は、はるか彼方の北の空を案じて浮かべている。

わが身勝手な「快感」

2月5日(水曜日)、デジタル時刻は5:00。カーテンと窓ガラスを開いて確かめたけれど、雨も雪も降っていない。しかし寒気が酷く、わが身体は震えて気分も萎えている。きのうの気象予報士によればきょうは、日本列島のあちこち、主に多雪地方や地帯にあっては、災害級ともあるいは警報級とも言われている大雪予報が出ている。このところはほぼ毎日、テレビ映像では人々の雪掻きの苦難ぶりを観る羽目にある。もはや私は、雪景色にロマン心を抱くことはできない。このことを鑑みれば、わが心身を見舞う寒気にへこたれてはおれない。むやみに同情心は憚(はばか)れるものの痛ましくて、なすすべなく気の毒に思うばかりである。気の毒という心理状態を一つにするものには、埼玉県八潮市における道路の陥没事故にまつわる救出行動、ほか様々の作業光景がある。私はやるせなく無為に映像を観ているだけだが、ただ一つ、どちらにもひたすら無事を祈る気持ちが充満している。こんなおり、暢気(のんき)なことを書いていいだろうかと自問し、気を揉むものがある。しかしながらわが身勝手にも、気分直しに書き留めたいものがある。きのう、歯医者から帰り茶の間のソファに背もたれていると、山から二羽のメジロが寒椿の花を目がけて飛んで来た。すぐに、小枝を揺らし花びらの蜜を吸い始めた。「風、春一番」を待たず、例年の春の訪れを真っ先に告げるわが心の和む光景だった。きのうの私は、予告どおりに予約済の歯医者通いをした。診療椅子が倒されて寝そべると、間を置かず、出来立てほやほやの「差し歯」がスムースに差し込まれた。倒されていた診療椅子は元に復し、主治医は遠のいて、お顔馴染みの若い女性の歯科衛生は、わが顔面の前に手鏡が掲げられた。前歯の欠落部位は、見事に処置されていた。すぐさま、私は快感をおぼええた。書き添えたいと思っていたことは、これだけのことである。きょうのわが行動予定には、これまた予約済みの妻の病院(大船中央病院・鎌倉市)通いにおける引率同行がある。もちろんこちらは、快感にありつけるものではない。人生の終盤を生きる私の場合、快感に浸れる出来事など、まったく稀である。ところがきのうは、ごく小さいとは言え、胸の透く二つの快感に遭遇したのである。だから、書かずにはおれないものだった。まだ、夜明けの明かりは見えないけれど、彼方の北の空(多雪地方と八潮市)に向かって、無事安寧を祈るところである(6:00)。