坂本弘司撮影 12月2日(月曜日)。壁時計の針は、起き出し時刻の定時(5時)から、30分ほど過ぎたところを回っている。両耳には補聴器を嵌め、メガネをかけ、さらに文章には関係ないことまでを書けば、洗った入れ歯を入れて起き出している。雨の音、風の音、嵐の音なく、開けっ広げの前面の窓ガラスを通して見る外気は、いまだ真っ暗闇である。この文章を書き終える頃には夜明け、あるいは指先が駄々をこねれば朝となる。そのときようやく、きょうの空模様を知り、書き加えることとなる。きょうは、12月に入り二日目である。確かに、年の瀬・12月は、前月までの十一か月と比べれば、わが心境と心象はまるで気狂い沙汰に変わっている。この変化の因を為すのはやはり、暮れ行く年にともなう、切なさ、遣る瀬無さ、ずばり寂しさ、さずかりという心模様の焦りであろう。自然界が営む、年のめぐり、季節めぐりに異変はないけれど、わが心理は異変まみれである。これこそ人間の証しかな? と思えば、もとより人間は、悲しく、つらい動物である。「ひぐらしの記」は、大沢さまからこんなお言葉をさずかり、一念発起して書き始めたものである。「前田さん。何でもいいから、書いてください」。優しいお言葉にすがり書き始めると、ある日「ひぐらしの記」と命題が付されていた。六十(歳)の手習いの実践の場を賜った私は、小躍りして友人知人へブログの呼びかけをした。それらの中に一人、大学学友の池田(埼玉県坂戸市)がいた。何回か書いたのちの文章に私は、「中締めです」と、書いていた。ところが、中締めに終わらず、「ひぐらしの記」は、なお続いていた。すると池田は、電話でこう言った。「中締めと言ったのに、終わらないね。それって、変じゃないの? 言葉を大事にする前田らしくないよ」。書き始めの頃だったから、私自身は素直に中締めのつもりだった。しかし、幸か不幸か「ひぐらしの記」は、中締めの言葉に背いて途方もなく続いてきたのである。池田は昨年の暮れに、突然あの世へ旅立った。池田の訃報は葬儀を終えたのち、もう一人の学友・佐々木(埼玉県所沢市在住)から伝えられてきた。年の瀬にあって池田は、一周忌にある。寂しく、冥福を祈るところである。佐々木には先日、こう伝えた。「まだ、文章は書いているから、ブログを案内するね」と言って、事細かに「現代文藝社」へ導いた。佐々木は、「前田。まだ書いているのか。読むよ」と、言った。すると一度だけ、「読んだよ」と、メールがきた。ところが後が続かず、私は佐々木の近況をメールで尋ねた。佐々木は入退院を繰り返し、「おれは命を保つことに、精いっぱいだ」と、メールがきた。佐々木は、あるとき突然、まったく耳が聞こえなくなり、電話による会話は断たれている。「そうだったのか、御免。おれが、メールをしても構わないようになったら、OKのメールをしてください」。しかし、OKのメールはいまだ来ず、そろそろわが一方通行のメールの書きどきにある。閑話休題、大沢さまが恵んでくださっている「ひぐらしの記」は、わが人生にあまた、いやかぎりない幸運をもたらしている。ゆえに私は、大沢さまをエンジェル(天使)とも女神様とも称え崇めている。一方で、私にとって「ひぐらしの記」は、悪魔と思える「時」がある。それは、ネタの浮かばない寝起きどきである。しかもその心境を私は、ほぼ毎日の寝起きにあってこうむっている。またもやきょうも、その証しにある。きょうの起き立てにあってもネタなく、まさしく気狂いの心境を携えていた。恥を晒して書けば、こんなことである。わが前田(チチ)そして前田(ハハ)がもうけたたくさん(8人)の子どもの命は、残るは自分だけになっている。両親が優しい人だっただけに余計、寂しさつのるものがある。そして、わが命が尽きれば、両親にすまないと思う気持ちが横溢している。きょうの文章の前編は気狂いではないけれど、後編の文章は確かな精神破綻(気狂い)の証しと言えそうである。あえて言えば付け足しの後編は、究極のネタ不足の表れである。年の瀬の朝の空模様は、わが心境を映して、いくらか翳(かげ)りのある日本晴れである。 長瀞と言えば、ずっとずっと昔、夫が大腸癌の手術をして、二十㎝ほどお腹をきり、術後の養生で長生館に宿泊したことがあったのを思い出しました。温泉が術後の回復に効果があるというので出かけたのでした。背筋を伸ばすことが出来ず、庇いながら、宝登山に登りました。夫は我慢強い人でしたので、弱音を吐かず、いつも前向きな生き方をしていました。 11月23日(土)祝日、友人と紅葉を見に、長瀞へ行ってきました。 12月1日(日曜日)。いよいよ、ことしの最終月を迎えている。壁時計の針は、私の切ない心情などにはお構いなく、みずからのペースで正確に時を刻んでいる。起き立ての私は、時のめぐりの速さに脅かされて、「ああ無常、ああ無情」という、二つの切ない心境の抱き合わせをこうむっている。人工の時計のみならず自然界は、当月に入った「冬至」(12月21日・土曜日)へ向かって、季節相応にこれまた正確に夜長の時を刻んでいる。「ひぐらしの記」を書く私にとっては、ぼうーとして起き出すことは許されない。文章の明確なネタにはならずとも、私はそれに近いものを浮かべて、起き出してこなければならない。このことは、生来凡愚の私にとっては「雲を掴むほどに困難」であり、とても厄介なことである。挙句、起き出すたびに遣る瀬無く、わが心中には(もう潮時、潮時…)と、半ばお助けを乞う、呪文(じゅもん)が渦巻いている。これすなわち、毎日めぐってくる起き立て「時」のわが心境である。ところがきょうは、ことしの最終月への月替わりにあって、この心境はいっそう弥増(いやま)している。叫び喚(わめ)いてもどうなることでもないことに、悶え足掻くのはわが小器ゆえである。きょうの起き立てのわが心中には、こんなことを浮かべていた。もとより文章のネタにはならず、まるで孑孑(ぼうふら)のようにふらふらと蠢(うごめ)いて、浮かんでいた。現在のわが身は、日本社会に貢献する労働は皆無である。いや、実際にはお邪魔虫となり、私は様々な日本社会の支えを享受しながら生き長らえている。一方、私の家庭内労働は、二人すなわち老老家庭の現状に特化している。それらは主に二つである。一つは街中・大船(鎌倉市)への、往復定期路線バスを利用しての買い物行動である。そして一つは、妻の生活にたいする支援である。こちらにあっては、妻の主婦業への支援がある。しかし、こちらはあまり役立たず、足手まといのところがある。そして一つには、私がいなければにっちもさっちもいかず、妻の生存自体が危ぶまれるものがある。それはわが買い物行動をはるかに超えて、ずばり妻が生き延びるための支援である。たまの「髪カット」や「昼カラオケ」、はたまた「たまには、外食でもする? 何か食べたいのがあれば、行くよ…」。こんなことなど、子どものお使いほどの番外編である。これらを撥ね退けてまさしく主要を為すのは、妻の生存を支えるための病医院へのわが引率行動である。かつての私たちには、この行動はまったくの用無しだった。ところが現在は、病院通いは妻自身にも重荷としてふりかかり、わが生活にも影響をもたらしている。しかしながらこのことは相身互い身であり、たまたまわが家の生活における現在進行形の現象にすぎない。いわゆる、いつ咄嗟に逆転し私にふりかかるかもしれない、心許ないものである。なぜなら世の中にあっては、夫婦にあっては一方の配偶者(夫)の命が早切れにある。このことをわが胸に仕舞い込んで私は、妻との外出のおりには文字どおり、率先行動役を務めているのである。生存の三要素、すなわち「衣食住」にあって現在は、それらを上回り夫婦共に医療費になけなしの金をはたいている。もちろん、買い出し時における、「食のコスト」の値上がりには手を焼いている。懲りず何度も書いているけれど、生きること(生存活動)は、確かに人生の一大大事業である。余生縮まる中にあって、その中に楽しみを見つけることもまた、限られた命の為す大事業である。この危ぶまれる事業を助けるのは、天変地異さえなければやはり、自然界の恵みである。師走入りの夜明けの空は、新たな地球に住むかのような気分にもなっている、かぎりなく胸の透く日本晴れである。妻は元気に階下で目覚めているであろうか。わが家のきょうの日暮らしの始まり時である。 高橋さん、作品を読んでとても丁寧なご感想をお寄せいただき、ありがとうございました。 今回のたまごさんの作品は、ショートショートではなく、幻想小説かな、と思いました。 大沢先生、さっそくご感想をお寄せいただき、ありがとうございます。 たまごさん、ご投稿ありがとうございます。
年の瀬に思う
たまごさん、長瀞行きの情報ありがとうございます。
長瀞というと背中を曲げて歩いていた姿が思い出されます。今は、医術も進歩しているので、開腹手術をしなくても良いのかも知れませんが、腸を十㎝ほど切り取って、板のような物に貼り付けて、真ん中に一㎝ぐらいの塊が有り、それが癌だと執刀医から説明を受けたことが、ありありと思い出されます。あのときの癌の宣告は命が縮むほどの衝撃でした。
たまごさんの長瀞の景色、おそばの写真を見て、今はもう遠い昔の痛みなのだと改めて思いました。長瀞行
長瀞へは午後2時頃到着し、4時45分の電車で帰ってきたので、それほど長時間過ごせなかったのですが、とても楽しい時間でした。
「きそば むらた」で、ざるそばとこの店おすすめの山芋揚げを食べました。そばは硬めで歯ごたえがあり、山芋揚げはお餅の磯辺焼きにも少し似ていると感じる食感でした。
その後、岩畳で荒川沿いを散策し、紅葉を眺めました。
残念ながら、紅葉は思ったほど色づいてはいませんでしたが、やはり自然の中にいると空気が澄んでいて、とても癒されました。
帰りはお土産屋さんに立ち寄り、お酒やら眼茶やらつい買い過ぎてしまいました。買い過ぎになるので我慢しましたが、売られていたご飯のお供はどれもとても美味しそうで、次回行く機会があれば、ぜひ買いたいと思いました。
写真も添付したかったのですが、サイズが大きすぎるらしく、うまく添付できませんでした。
岩畳からの紅葉を、ぜひご覧いただきたかったので、残念です。こころ急く、師走入り
高橋さん、ありがとうございます
小説は読み手と書き手の協同作業である、という言葉をどこかで耳にしたような記憶がありますが、今回、高橋さんにたまごのこの作品は幻想小説である、と読みを膨らませていただいたおかげで、まさにこのことを体感できたような喜びを感じております。
修業中の身である私にとりまして、ご感想をいただくことは、自分の気づかなかった点に気づかせていただく貴重な機会となっております。
次回作を書く上での励みになります。
ありがとうございました。
長瀞行きルポルタージュ。
また改めて投稿させていただきますね。☆たまごさんへ☆『河童と白猫』☆の感想です☆
最初は、河童の場面と白猫の場面は、別次元かと思いましたが、ラストは交流しますので、同次元で理解しました。
小説は、基本的には人間を描くものですが、今回は幻想小説ですので、あえて人間ではない河童と白猫を登場させて、”人間同様の心の温かさ”を訴えるあたりが素晴しいと思いました☆☆
あくまで、ぼくの主観での感想ですので、違っていましたら、申し訳ございません。
それから、河童と白猫の森の中の場面は、ぼく好みの描写でした。
次回作も楽しみにしております☆☆☆
あと、☆『長瀞行きルポルタージュ』☆の御投稿も最大限希望しております☆大沢先生、ありがとうございます
大沢先生にお言葉をいただくと、今後も書く力が湧いてくるような気がしてとてもうれしく思います。
引き続き精進いたします。
ありがとうございました。思いやる心
人間界もこうありたいですね。冗長でないところがいいですね。さりげない表現の中に深い思いが詰まっています。読者に読み取る余地を残している表現力が見事だと思いました。
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