掲示板

坂本弘司撮影

前田さんへ『防災の日』の感想です!!

「天災列島と揶揄される日本の国に住むかぎりは、天災の恐ろしさとそれにたいする備えは肝要である。」
「コロナ禍は、天災と異にする別次元の恐ろしさである。」
まったく前田さんがお書きになった通りですね!!
防災グッズの御購入、なによりですね。
2度目の夏風邪の一刻も早い御快復を心より祈っております。

きょうも前田さんへ大大大大エネルギー &大大大パワーを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/

防災の日

九月一日(木曜日)、夏が去りまごうことない秋の訪れにある。その証しでもあるかのように、久しぶりに気候のさわやかな夜明けが訪れている。ただ惜しむらくは、八月の二度目の夏風邪は治りきらずに、九月へ持ち越している。それでも、憂鬱気分を蹴散らしてくれる天恵である。しかしながら一方、ゆめゆめ油断がならない地震や台風の多い月の訪れである。時あたかも、きょうは「防災の日」である。それゆえに、例年であれば際立って、「天災の恐ろしさとそれに備える防災」が叫ばれる。そして、この日にちなむ「防災訓練」や、いろんな行事も営まれる。ところが、新型コロナウイルスの発生以降は、そちらの対策や報道に明け暮れて、防災の日にかかわる行動や行事は、かなり後塵に拝している。しかしながらやはり、天災列島と揶揄される日本の国に住むかぎりは、天災の恐ろしさとそれにたいする備えは肝要である。九月にかぎらず台風は現在、十一号の号数を数えて、日本列島に向けて北上中である。しかも十一号台風は、史上稀なる大型台風と予報されている。そのうえ、新たな台風の発生が伝えられている。もし、二つの台風が抱き合わせで襲ってきたらと、気象庁はその恐ろしさを伝え始めている。台風は予報付きだから、いくらか身構えることはできる。しかしながら地震には、まったくの無抵抗である。その挙句、国や国民の混乱ぶりは、いかなる大型台風の比ではない。一瞬にして国が滅び、国民の命が絶えるほどの様相(災難)に見舞われる。防災の日とは、ズバリ地震の恐ろしさを忘れてはならないという、警(いまし)めの日である。確かに、いっときも忘れはしないけれど、事前の備えはまったくできずじまいである。それゆえ、最も憎たらしい天災は、ずば抜けて地震である。確かに、コロナも恐ろしいけれど、天災とりわけ地震、台風、豪雨、竜巻、雷、などに及ぶものではない。言うなればコロナ禍は、天災と異(こと)にする別次元の恐ろしさである。きのうは防災の日を前にして私は、もちろん事前の備えではなく、事後対策として名ばかりの「防災グッズ」を買ってきた。何ら役立たずの、お金の無駄遣いとは承知の助である。しかし防災グッズは、お金無駄で、役立たずで済めば、至上の幸運である。すなわち、事後であろうと防災グッズは、役に立っては困るのである。こう心に決めて、「おまじない」のつもりで、いくつかを買ってきた。私はいつなんどきも、天災の恐ろしさは忘れていない。それは、台風にわが家の屋根を飛ばされた痛い体験の教えである。あれ! こう書いているうちにのどかな夜明けは、雨嵐になっている。気が揉む、恐ろしい防災の日である。

八月末日

八月三十一日(水曜日)、台風十一号が北上中のせいなのか、夜明けの空はシトシト降りの雨である。台風は自然界のしわざであり、人間界に罪はない。座して望むところは、できるだけ災難・被害なく、彼方へ遠ざかることである。知りすぎている四字熟語だけれど、電子辞書を開いた。【自業自得】:「(仏)自らつくった善悪の業の報いを自分自身で受けること。一般に悪い報いを受けること。自業自縛」。これと、ほぼ同意義の言葉が浮かんでいる。ズバリ、悪行(悪い行い)の報いである。すなわち、わが悪行の祟りやしっぺ返しである。かなり大袈裟だから換言すれば、実際にはこうである。ほぼ毎日、私は似たり寄ったり、かつ実のない文章を書いている。それゆえの悪の報いは、掲示板に訪れる人様が、だんだん減り気味である。すなわち、わが罪と罰である。もちろん私は、身の程をわきまえず、のぼせあがっているわけではない。なぜなら、掲示板へのわが貢献度はなく、それゆえ罪もない。だから、書くネタなく、言葉遊びにすぎない。きょうは八月末日(三十一日)、よくも似たり寄ったりの実のない文章を書き続けてきたものだと、思うところばかりである。もちろん、反省しきりだけれど、出口への展望はない。このことを恥と思えば、九月への継続は沙汰止みである。二度目の夏風邪はいまだに治りきらず、こちらはなんなく九月へ持ち越しである。シトシト雨は、土砂降りに変わっている。私は、心静かに降りようを眺めている。わが罪と罰を思う、月替わりの嘆息である。

ワクチン接種後の症状

 八月二十七日(土)は四回目のワクチン接種の日だった。朝から気がかりなことがあった。この日は朝から日差しが強く、徒歩で三十分以上かかる旧保健センターまでタクシーで行こうか歩いて行こうか思案していた。それによって出発時間が違うからだ。早くから出かける準備は完了していたにもかかわらず、ようやくタクシーで行くことにしてタクシー会社に電話を入れると出払っていると断られてしまった。心配していたことが現実になった。仕方なく、駅まで歩いて行くことにした。接種時間が迫っていた。熱い日差しが照りつける中、熱中症の心配まで脳裏を過ぎる。
 駅に着いたが、乗り場にタクシーの姿はない。あんなに早くから出かける準備をしていたのに、指定されていた午後一時四十五分~二時十五分までにぎりぎりだった。
 どうにか二時五分に到着した。汗が止めどなく流れ落ちた。受付の女性に封筒を渡すと、「二時だったんですね」と念を押された。私はその言葉の意味がつかめず、「急いで来たんですよ。タクシーが捕まらなくて」と返答をした。女性はその後指定の位置に案内してくれた。私は気になって、返された文書に目を通すと、唖然とした。指定の時間は一時四十五分から二時までとなっていたのだ。何度も確かめたはずの時間だったのに、どこですり込まれたのか勘違いしてしまっていた。
 とんだハプニングの後に、無事に接種を済ませ、妹に終了のメールをした。私を気遣って泊まりに来てくれるという妹と駅で待ち合わせしていたからだ。
 接種後の二十八日の朝三時三十三分に気分が悪くて目が覚めた。熱が三十七度六分あり、前もって主治医に出してもらっていた頓服のカロナール錠200㎎を一錠飲んだ。体中が痛く、頭が重く痛みまで加わって眠れない。朝まで寝返りを打ってしのいだ。薬はどうやら効いたようだが、起き出してみると節々が痛く、何もする気になれない。熱は三十六度六分~三十六度三分にまで下がったが、筋肉痛がひどくて頭痛がするのでカロナールをまた一錠飲んだ。熱は三十六度七分になった。体中の痛みが激しく夕方五時にカロナールをまた一錠飲んだ。
 夜七時頃、気分が悪く、もう起きていられないのでベッドに横になった。熱が八度一分になっていた。その後は何度か目を覚まして熱を計ったが、三十七度から下がらなかった。
 二十九日(月)になって、起床時に熱が三十六度六分に下がった。その後は熱は出なかった。体の痛みも注射を打った左肩の関節の痛み以外は嘘のようになくなった。倦怠感もなくなって正常になった。
 妹が来てくれていなかったら、何と心細い事だったろうと思うと、有り難くて感謝の気持ちでいっぱいだった。

継続だけの文章は、切ない

八月三十日(火曜日)、夏らしくない夏、秋らしくない秋、冬みたいな気分の夜明けを迎えている。すっきりしない季節変わりのせいである。きのうから私は、着衣にあっては軽装の夏スタイルに未練を残し、 防寒の冬スタイルに変えた。実際には、上半身は半袖から厚手の長袖に替えた。下半身は短パンやステテコなど未練なく、布地の下着と長ズボンに替えた。就寝時には、重たい冬布団に潜った。どれもが、突如の防寒対策だった。(なんで、こんなに寒いのだろう……)、わが実感だった。傍らの妻にたいし、わかりきった警告を告げた。「寒いね。風邪をひいたら大損だよ。絶対、風邪ひくなよ!」。同時に、私自身にたいする警(いまし)めの言葉でもあった。私はいまだに治りきらない二度目の夏風邪に手を焼いている。それゆえに、かなり後ろめたい気分の警告ではあった。いや、それだけに身に沁みた警告でもあった。確かな、異常気象の秋の訪れにある。わが実感は、メディアニュースにも現れていた。それはぐずつく天候のせいで、体調を崩す人が多いというものだった。夏は夏らしく、秋は秋らしく、冬は冬らしく、そして春は春らしい、まっとうな季節変わり望むところである。春・夏・秋・冬、すなわち四季を分ける日本の国特有の季節変わりが崩れたら、災害列島の汚名を雪(すす)ぐ特長を失くすこととなる。そうなればきわめて残念無念である。今朝は、寒さに加えて雨模様の夜明けである。きのうの夜明けにあって私は、昼間の胸の透く秋空を願った。ところが、この願いは空念仏に終わった。雨模様の大空を眺めながら、私はきょうも再び、懲りずに願うところである。このところのわが文章は、実のないものばかりである。そのうえ、ミスも目立っている。異常気象は、わが精神状態に異状をもたらしている。いや、異常気象のせいにはできない、わが脳髄の不出来のせいである。それゆえ、きょうもまた、書かずもがなの文章を書いてしまった。過ぎ行く八月は、とことん恨めしい月である。急に大空が明るくなり、朝日が射し始めている。わが憂鬱気分直しは、やはり自然界にすがるしか便法はない。

「冠の秋」が来た

八月二十九日(月曜日)、夜明けの空は朝日の光を強めている。天気予報は見ていないけれど、昼間には胸の透く天高い秋空になるだろう。きのうは、曇天と言うより雨空だった。このところは暑気が去って、早やてまわしの秋モードにある。もはや夏風邪とは言えないが、名残の夏風邪はいまだに治りきらず、鼻先ムズムズの不快感が尾を引いている。いつものことだけれど、「後悔、先に立たず」と「後の祭り」という、同意義の成句を抱き合わせて、浮かべるなさけなさである。風邪の兆しが現れたら市販の風邪薬には頼らず、掛かり医者の処方箋をたずさえて、行きつけの調剤薬局に行くべきだった。確かに、市販の薬は、効果覿面(てきめん)とはいかないところがある。反面、市販の薬には容易に買えて、買い置きもできる便利さがある。それゆえに、面倒くさがり屋の私は、ついつい市販の薬にすがっている。挙句、私は小さな夏風邪さえ長引かせる愚か者である。優柔不断すなわち決断力の不足は、わが生来の性癖(悪癖)の一つである。再び書くけれど、このところは秋風とともに、急に風の冷たさが身に沁みている。このためまずは、就寝にあっては掛布団が必需品になっている。さらに、肌身には重ね着が必要になってくる。おのずから夏の醍醐味は、遠のいて薄らぐばかりである。一方で、残暑の暑気の厳しさは知りすぎている。だとしたら欲張って、肌身に優しい季節変わりを願っている。さらに欲張って、台風の来ないさまざまな「冠の秋」の訪れを願っている。欲張りの私には、まだ欲張るものがある。それは、夏風邪の退散である。満天、日本晴れに変わっている。あれ! 鼻先のムズムズ感がとれている。「冠の秋」が来た。

人間

八月二十八日(日曜日)、東京都下(国分寺市内在住)の次兄(92歳)伺いのため、朝駆けいたします。このため、文章はこれだけです。きのうの夕方は、妻の四回目のワクチン接種の引率同行でした。幸い妻は、痛みのない夜明けを迎えています。効果はわからず気休め程度です。接種会場は混雑しており、人みな生き続けるために必死です。それらを優しく支えてくださっていたのは、数多いスタッフです。人間のすばらしさを垣間見られて、私にはうれしいひとときでした。確かに、個々の人間はすばらしいです。ところが、党を組むとなさけなくなります。改めてこんなことを知り得て、私にはとても時間でした。

ぼくは、妻の引率

驚きました。今日は妻の四回目のモデルナワクチン接種のための引率です。こちらは夕方です。共に、無事を祈ります。

四回目のワクチン接種の日

 本日は四回目のワクチン接種の日である。午後一時四十五分から受付という通知を受け取っている。モデルナの副反応の心配と四回目接種ということで末の妹が用心して泊まりに来てくれるという。近くに居住しているとはいえ、つねに気遣ってくれていて、心強く感謝している。妹の口癖は、「お母さんがいつも言っていたのよ。きょうだい仲良くしてね」である。よほど母の言葉が心に残っているのだろう。そのお陰で、私は恩恵に浴している。

秋の夜明けにすがる私

八月二十七日(土曜日)、きのうの夜明けのわが嘆きに報いてくれたのか、いくらか秋の夜明けを叶えている。それでも、夜明けに朝日の輝きはなく、二日続いて恨みを買わない程度の、いまだ八歩留まりである。だからなお、胸の透く秋の夜明けを願うことに変わりない。人の世は、人間だけでは成り立ち得ない。いや、多くは、自然界の恵みにおんぶに抱っこされている。すなわち人の世は、人間界と自然界の二人三脚で歩んでいる。もちろん、両者の足がもつれ、あるいは片方の足が崩れて、倒れること多しである。それでも二人三脚は、過去、現在、未来永劫にわたり、できるかぎり足をそろえて歩いて来て、この先はてしなく歩いて行く。目下、私は好季節にふさわしい秋の夜明けを望んでいる。具体的にはわが夏風邪治しは、薬剤の効果を凌いでさわやかな秋の夜明けにすがっている。現在、夜明けに呼応しわが夏風邪の治りも八分程度である。全天候型の夜明けと、つれてわが夏風邪の全快を望むところである。季節のめぐりには、春夏秋冬という区切りがある。それゆえに私は、せっかくの秋がぐずついて、早やてまわしに冬にでもなればもったいなく、おのずから焦燥感つのるものがある。ここまで時間をかけて書いても、まだ朝日の輝きはない。天高い夜明けの秋空は、もうしばらくであろうか。きのうは、いつもの大船(鎌倉市)街へ買い物に出かけた。コロナのせいでわが外出行動は、自粛すなわち自主規制のさ中にある。それでも最低、生存の糧(かて)すなわち、食料だけは買い置きしなければならない。やや浅ましい気持ちはするけれど結局、人間は「食べるために生きる」というより、背に腹は代えられず、「生きるために食べる」動物である。このことは売り場に立てば、人様の様子を凝視しながら実感できるところがある。われのみならず人様も、生きるための食料探しと品定めに躍起である。必ず食べなければならないものであれば、できるだけ長生きできる体に良いもの、さらには美味しいものを血眼(ちまなこ)になって探すのは、命ある者の定めである。そしてそれには、財布の中のお金の過多、この頃では電子マネーの過多の縛りがある。言うなれば売り場は、売る人と買う人、相まみえる生活戦場の様相である。この戦場を癒してくれるのは、海産物、農産物、加えて人工の食品である。海幸・山幸、秋にはサンマが話題にのぼり、さらには新米および山菜そして果物、総じて「実りの秋」満載である。「生きるために食べる」とはいえ、楽しい秋の訪れである。その先陣を切るのはやはり、さわやかな秋の夜明けである。だから私は、とことんこれにすがっている。指先ノロノロと時が過ぎて、大空日本晴れとなり、視界には澄明(ちょうめい)な朝日が輝き始めている。夏風邪の名残は、かなり遠のいている。