年の瀬初日は、迷い文

十二月一日(木曜日)。いよいよ、令和4年(2022年)の最終月が訪れている。人生の晩節を生きる私には、あまりにも速い時のめぐりを感じて、心寂しさつのるものがある。大袈裟好きのわが表現を用いれば、寂しさと侘しさに絡まれて、心身が圧し潰されそうである。現在の時刻は、夜明けまではまだ遠い3時過ぎである。寝床は、文字どおり睡眠の場所である。寝床は、目覚めて様々な瞑想に耽る場所である。ところが私の場合は、「冥想」に変えて同音異義の「迷想」に耽ること頻りである。つらいと言えば確かにつらいけれど、わが小器の証しゆえに耐えなければならない。私は目覚めて、様々な迷想に絡まれていた。その一つは、こうである。わが絶えない愚痴こぼしは、生きるための「捌け口」である。もちろんこの表現は、真実に近いものである。一方、わが絶えない愚痴こぼしは、生きるための「糧(かて)」である。ところがこちらは大袈裟すぎて、誤魔化しのままごとみたいなものである。いずれにしても私は、「ひぐらしの記」における愚痴こぼしで、生存の苦しさをかなり薄めている。確かにこのことは、文章を綴るわが身勝手である。ゆえに一方、好意を授かるご常連の人たちにたいしては、平に謝るしか便法はない。迷想の続きであって自分自身、現在、何を書いているのかさえわからない。ただはっきりと自覚できるのは、気違いじみた迷想だ! ということである。「ひぐらしの記」は、継続だけが取り柄にすぎない。もちろん、通説の「継続は力」には、まったくなり得ていない。さて、「ひぐらしの記」はブログ特有に、バッシングや炎上を恐れて、私はネタに様々な自己制御(自制)を掛けている。挙句、ネタの広がりはなく、おのずからいつも同じような文章に成り下がっている。もとより、私自身面白味なく、そのうえ恥を晒して、恥じ入るところである。しかしながらこのことは案外、「ひぐらしの記」継続の本源を成している。確かに、自虐と愚痴こぼしまみれの文章には、他人様(人様)からのバッシングや炎上の恐れはない。挙句、「ひぐらしの記」は、継続にありついてきたのである。もちろん自省するところはあるけれど、半面、幸いなるハプニングである。年の瀬初日の文章には、夜明けまでの空き時間を埋めるだけの迷い文を書いてしまった。不断のわが心境は、時々刻々、様々に揺れ動いている。年の瀬にあってはこの心境に、いっそう際限なく拍車がかかること請け合いである。こんな書き殴り文では、わが気分の解れるところはない。壁時計の針は未だ4時過ぎで、夜の静寂(しじま)にあっては、月光および日光共に、姿を暗ましている。