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坂本弘司撮影

我が家にも寒波襲来

 昨日は所用があって、朝九時過ぎに出かけた。大した用事ではないので十時前には帰宅した。入り口近くまで来ると、どこかで水の流れる音がした。門扉に近づくと、私が畑と呼んでいるベランダの水道管から水が噴き出している。水は屋根の樋を伝ってピチャピチャと激しい音を立てて地面に流れ落ちていた。
 この季節、私はベランダにある水道栓にはいつも神経を使ってきた。蛇口が凍ってパッキンが破裂して水漏れを起こすので、タオルの上からビニールを被せて凍るのを防いでいた。ところが今回は、その場所ではなくて、鉄管が破裂したのだった。
 出かけるときには異常は無かったが、気温が次第に上がってきて、凍ったところが溶け出してせいだった。
 隣の家の窓に面しているので、迷惑がかかるといけないと思い、すぐに元栓を閉めて、いつもお世話になっている水道工務店に電話をした。多分混んでいて電話が繋がらないのではないかという危惧をしながらだった。ところがすぐに繋がった。「もう少ししたら向かいます」との返事だった。有り難かった。
 その後、蛇口を移動してもらい、古い鉄管は取り除いて新しく繋ぎなおし使用可能になった。使用可能になった。ほんの短い時間でも水道が使用できないのは不便である。まして災害などで断水したら大変だろうと、しみじみと何事もなく過ごせている日常を有り難いと思った。すぐに修理をしてくれる工務店の存在も有り難かった。
 隣の家には迷惑をかけたことを詫びた。すると奥さんが「窓を開けたら気がついたので声をかけに行こうと思っていたのですよ」と快く応答してくれた。
 いろいろな人にお世話になって暮らしていることをしみじみと心に刻んだ一日だった。

日常生活のつらさ、かなしさ

1月27日(金曜日)、起きて、水道の蛇口をひねった。水が出た。きのうは出なかった。きのう出なかったのは二階の蛇口だけで、一階の台所の蛇口は、いつものように水を流した。大本の水道管の破裂は免れて、二階へ延ばしている鉄管が剝き出しにあり、そのせいで鉄管がいっとき凍っていたのであろう。のちにひねると、二階の蛇口からも水が溢れた。それでも、悔やんでも悔やみきれない、確かなあばら家の証しである。それゆえにきのうの文章には、ズバリ「あばら家のつらさ」と記した。正直なところは、つらさに加えて「つらさ、かなしさ」である。水道の蛇口は、寒暖を表すには正鵠無類である。起き立てにあって体感気温は、きのうよりかなり緩んでいる。確かにわが家は、貧相、貧弱、みすぼらしい、お粗末など、いくら同義語を重ねても尽きない「あばら家」である。ようやく免れるのは、掘っ建て小屋くらいである。こんな建屋なのに私は、文章の中では意識して見栄っ張りのごとくに、「茶の間」と記している。もちろん実際には、「茶の間」と呼べる、洒落た部屋(スペース)はない。これまた正直に言えば、「茶の間、もどき」である。なぜならそこは、小さなテーブルを挟んで、相対にソファを置いているにすぎない。傍らには、テレビを置いている。壁付けのエアコンと置き型のガスストーブがある。これらの装置のせいと、老夫婦は日常生活のほとんどをここで過ごすため、おのずから私は「茶の間」と呼んでいるにすぎない。実際には、茶の間の体裁からは程遠いところである。しかしながら、あばら家のわが家にあってはここしか、嘘を承知でそう呼ぶところはほかにない。明らかな自演だけれど、「茶の間」と呼べば、心が和らぎ、気分が寛(くつろ)ぐところはある。それゆえに私は、似非(えせ)の「茶の間」にすがり、わが日常気分を癒している。いや、実際のところはソファに背凭れて、窓ガラスを通してふりそそぐ、暖かい太陽光線に鬱な気分を癒している。確かに、太陽光線のありがたさ横溢である。すると、太陽光線の恵みに応えて、不断の私は、まるで呪文のごとく「太陽礼賛」を唱えている。一方、茶の間には、わが家の日常生活のつらさが凝縮している。いや、つらさはただ一点、ここに尽きる。それは相対で見遣る、互いの老いさらばえてゆく姿である。つまるところわが家の日常生活のつらさは、互いの目から見遣る配偶者の「老いの身」の確認である。姿を変えてゆく妻を見るつらさは、ずばり現在のわが日常生活における、「つらさ、かなしさ」の筆頭である。すなわちこれこそ、「あばら家のつらさ」をはるかに凌ぐ、わが日常生活における現実である。水道水が元に戻り、寒気が緩むと、碌なことは書かない。しかしながら、書かずにはおれない、わが日常生活における、つらさ、かなしさである。

♪大沢先生へメッセージです4♪

大沢先生、感想の御投稿どうもありがとうございます。
そうですね、3色にして良かったと思っています♪♪♪
窮屈なのは、購入時からそう思っていました(苦笑)。
香りですが、ぼくはそんなに鼻がいい人ではありませんので(笑)、たぶん家の中の空気の流れが、キッチン⇒寝室に向かっているからだと思われます。
寒すぎますね〜〜!!
朝から鍋物を食べて暖まったりしています。
花の声、まだ聞こえていませんが、話してみたいと思います♪♪♪

現代文藝社編集室だより


パンデミック&Putin’s War ~その1
                              稲葉実

A4判  52頁 並製本(小口折り)
2,400円
ISBN978-4-906933-93-8

 「邪悪の常として、それは仲間を呼び寄せる。…ほら、見るが良い、一層ひどい邪悪が、今そこにやって来た!!」
 上記の文章はこの本の巻頭に掲載されている。プーチンの戦争と言われるロシアのウクライナ侵攻が2022年2月24日開始された。著者はいち早くその状況を「この2月嫌な月なり毒二つCOVIDの毒侵略者の毒」と詠んだ。

満開のヒヤシンス

 黙々として、楽しませてくれますね。満開になるとちょっと窮屈そうですね。これからまだしばらくはこのまま楽しめますね。
 それにしても、そんなに香るものなのですね。このところ寒波襲来で、お勤め大変ですね。寒さに凍えて帰宅して、「お帰りなさい。お疲れ様」と花の声が聞こえるでしょう。心の持ちようで、いくらでも演出できますよね。声に出して、会話を楽しんでみるのもいいかもしれませんね。ちゃんと言葉を返してくれますよ。

あばら家のつらさ

1月26日(木曜日)、起きて、わが甲斐性無しが身に沁みている。「しまった」、二階の水道水が出ない。デジタル時刻4:46、階段を駆け下り茶の間へ急いだ。早い目覚めではなく、たぶん、いつもの夜更かしの続きであろう? 妻は、すでに起きていた。「起きてたの? 早く寝たら…、二階の水道水が出ないよ。失敗したね」「そうなの? 困ったじゃないの! 水、出しっぱなしにしておけばよかったのね」「そうだな。失敗したね!」「水道管、破裂したのかな?」「破裂はしてないよ。凍っているだけだよ。暖かくなれば出るよ」「そうかなあー」妻は立ち上がり、台所へ行った。すぐに、ニコニコ顔で戻り、「パパ、出たわよ」と、言った。「そうか。よかったなあ…」。心塞いで余儀なく休養を決め込んでいた私は、すばやく2階へ上がり、冷え切っているパソコン部屋で椅子に腰を下ろした。長居は無用、ここで止めて再び、火の気のある茶の間へ向かう。2階の水道水はまだ出ない。

♪HIROKIのタレント日記!!

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《鉢植えヒアシンス5》
ほぼ満開になりました♪♪♪
ホワイトとパープルの2本目の茎からの開花もとんでもなく速く、ヒアシンスの超スピード感に驚いているところです!!!
キッチンの隣が寝室(元々母の部屋でした。車椅子で移動しやすいように改築の時にドアは撤去しました。)なのですが、芳香剤よりも強力に花の香りが匂ってきます(笑)。

♪前田さんへメッセージです4♪

まったく前田さんのおっしゃる通りです!!
そして植物は、太陽光線によって、光合成をして生きてゆくことができますね。
親なくして自分はありえない!! ですね!!

共に、褒め疲れはしない

この世にあって、太陽光線の恵みに勝る、ありがたいものは、他にない。人間界にあって比べて、いくらか凌ぐものは、親の愛情である。

わが人生の苦しみは「生きること」

1月25日(水曜日)、起き出して来てパソコンの起ち上げは、デジタル時刻3:50である。目覚めは途轍もなく早くて、書けば人様から「前田さんは、気狂いしたのか?」と、思われそうで書けない。ただし、気狂いの自覚はない。今や寝床は、安眠を貪る桃源郷ではなく、ひたすら安眠を願う修羅場と化している。さて、私は苦しみながら生きている。私にとって人生の苦しみは、「生きること」である。私日記丸出しに書けば、恐れていた雪は降っていないようである。夜明けて、晴れなのか、雨なのか、曇りなのか、それとも雪空なのか。窓外、暗闇にあっては知ることはできない。ただ、明らかな幸運は、窓ガラスに雪がべたついていないことである。寝床で温めていた身体は、ここまで書いただけですでに冷えている。寒さに震えてまでして、こんな実のない文章を書く必要があるの? と、自問を試みる。すると、心中の答えは、(即刻、止めなさい)である。「そうか、そうだな」、もうやめるよ。生来、優柔不断の性癖(悪癖)著しいのに、思いがけなく即決即断である。だからこの文章は、いつもにない決断の早さだけが取り柄である。文意は、わがお粗末人生の一端の披露にすぎない。現在、デジタル時刻は4:05。15分の殴り書きで結文とするものである。「ひぐらしの記」は、多くはこんな実のない継続文で、わが生きた証しを記してきた。確かに、人生の苦しみは、「生きること」である。だったら、(もう、あの世が、いいかな?)と、ちょっぴり思う一文である。夜明けの光はまだはるかに遠く、私日記定番の天気模様を記すことはできない。