坂本弘司撮影 前田さんがお住まいの鎌倉は素晴らしいところだと思っております♪♪ きょうも北浦和の地から鎌倉の前田さんへ大大大エールを贈ります(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/(^O^)/ 七月四日(月曜日)、寝起きののっけから、開くまでもない電子辞書を開いた。「命あっての物種:何事も命があって初めてできるものだ。死んでは何もできないから、命を大切にしなければいけないということ。物種は、物事のもととなるものの意。」なぜ、わかり切っていることをあらためて電子辞書にすがったのであろうかと、自問する。答えはたったこれだけに尽きる。それは、物種という言葉をしっかりと復習するためだった。人は、「暑い、暑い!」と言って、気象庁は、東京の猛暑日(最高気温三十五度以上)が八日連続になるのは史上初めてと伝え、メディアは連日、わがもの顔で暑さを囃し立てていた。これは、おとといまでである。ところが、きのうは一転、一日じゅう日光が射さない曇り空だった。ときには小雨模様となり、私は妻に急かされて不承不承立っては、いたるところの網戸を窓ガラスに切り替えた。しかし、雨はたいして降らずじまいで、妻への鬱憤だけが弥増した。パソコンを起ち上げるや否や私は、まったく初めての試みで、パソコン上に掲示の週間(今週)天気予報を見た。すると、近づく台風四号のせいであろうか、ほぼ今週いっぱい、雨マークと曇りマークが同居、すなわち重なり合っていた。ほぼと記したのは、週末の日曜日(七月十日)だけに、晴れマークと曇りマークが重なっていたからである。おのずから今週は、あれほど憎たらしく、なんだか悪者呼ばわりにされていた暑熱(気温)は、真夏日(最高気温三十度)さえとどかないままのようである。へそ曲がりの私は、暑さをしのげてうれしいどころか、かなり拍子抜けである。台風が去って、同時に夏が去ってもしたらつらいなあーと、私はバカなことを心中に浮かべていた。人間、いやいのちあるもののすべて、自然界のいとなみに恩恵を得たり、翻弄されるのは、あの世のことまではわからないけれど、この世の常である。「慌てる乞食は貰いが少ない」と言うけれど、夏本来の暑さにじたばたするのはもとより滑稽でもあるし、ばかばかしいところもある。結局、じたばたしなければならないのは、四つ目の親父を台風に替えて、「地震雷火事台風」の恐ろしさくらいである。確かに暑さ凌ぎは、自然界の風、人間の知恵が生み出した数々の人工物を用いれば極めて容易である。ただしこれには、自省するところはある。こんなのんきなことが言えるのは、私には外働きの仕事、また昼日中あって、あえて外出しなければならない用件などは一切なく、茶の間のソファにもたれるだけの生活に甘んじているからである。私とて、たまの買い物おりに、たらたらどころか、だらだらと、流れ落ちる汗には辟易している。だからと言ってとうてい、夏の暑熱を悪者にする気にはなれない。もとより、あらがえない自然界の営みにたいし、目くじらを立てるのは大損だからである。結局この夏も、私は「命あっての物種」という成句をたずさえて、短い夏を「惜しむ」くらいの心構えで、乗り切りたいと願っている。体(てい)のいい心構えとは、すなわち「我慢」である。今週の走りのきょうは、予報どおりに朝日の輝きが絶えた、曇り空の夜明けである。体感に暑さはなく、網戸は窓ガラスで覆っている。自然界の織り成す夏にあって、わずか一週間とはいえ、暑さが遠のくのは、やはり残念無念である。 今朝の前田さんの投稿を読んで、大いに共感し、ふと思い出したことがある。 心に響きのいい郊外ではなく、都会の僻地しか買えなかった貧乏人の、かなりの負け惜しみだとは、とうに自認している。たぶん、山際の立地(宅地)のせいであろう。わが家は、冬は極度に寒く、そのぶん夏はとても涼しい。どちらがいいかと、天秤にはかけたくない。なぜなら、わが抗(あらが)えない気象がもたらす、どちらも天恵である。冬も暖かい日ばかりでは異常気象と言われて、人間は戸惑うばかりである。まして現代の人の世は、地球温暖化現象に絶えず怯えて、びくびくしているところである。天邪鬼(あまのじゃく)のわが結論を急げば、地震さえなければ人間界にたいする自然界のもたらす天恵は、果てなく限りがない。連日「暑い、暑い!」と言って、メディアの街頭インタービューに答えている人が多いけれど、彼らは旱魃の恐ろしさを知らないのかと、勘繰りたくなる。私が街頭で聞かれば、「夏ですから、暑いのはあたりまえですね」と、答えるであろう。もちろん、こんな答えは まだ眠いのに二度寝にありつけないことは、お釈迦様が説く四苦八苦に次ぐ、人間の苦しみなのかもしれない。こんなことを胸中に浮かべて、きょう(七月二日・土曜日)もまた、仕方なく起き出してきた。とことん、バカな私である。起き出せばこれまた仕方なく、パソコンを起ち上げている。とことん、バカの上塗りである。バカの証しに、実のない文章を書き始めている。壁時計の針は、いまだ夜間と言える四時前あたりをめぐっている。「夏至」(六月二十一日)が過ぎたばかりなのに、それでも体感的には夜明けを遅く、夕暮れを早く感じ始めている。外働きの職業や、わずかの家内仕事さえいっさい持たない私は、いまだ夜間とも言えるこんな時間に起き出すのは、早すぎて損々である。精神異常をきたしているのか? と、自問するところである。もちろん、自答はノーである。しかし、尋常でないことは、承知せざるを得ない。「春眠暁を覚えず」。春とは言わず夏の夜明けにあっても、この成句に浴することに、こしたことはない。ところが今や、この心地良い成句は、私から遠ざかり死語になりかけている。仕方ない早起きだけれど、そうであればわが子どもの頃のように「早起き鳥」の声を耳にして、起き出したいものである。実際には、懐かしさつのる夢まぼろしである。起き立ての私は、開くまでもないと思いながら、電子辞書を開いた。そして、二つの言葉を見出し語にした。一つは、四字熟語の自業自得である。「自業自得:仏教で、自分が犯した悪事や失敗によって、自分の身にその報いを受けること」。一つは、泡沫である。「泡沫:①あわ、あぶく、うたかた、みなわ。②はかないもののたとえ。泡沫候補」。幼稚園児はともかく、小学生なら入学したての一年生でさえ知りすぎている簡易な言葉である。それなのにあえて開いたのは、こんな気持ちが心中に渦巻いていたせいである。すなわち前者は、このところのカウント数値の減り傾向が、わが長い駄文のせいかなと、思っていたゆえである。後者は、参議院議員選挙における、テレビ演説を耳にして、泡沫候補の心境をおもんぱかっていたからである。結局は起き立の暇つぶしにすぎない。確かに、私自身には精神異常の自覚症状はない。だけど、はた目にはどうかな? と、思うはざるを得ない、似非(えせ)「早起き鳥」の嘆きである。ほとほと、実のない文章である。涼やかに明けた夏の夜明けが、わが気分を癒し、とめどなく慰めている。
♪前田さんへメッセージです!!
自然が豊富な様子で、アケビやムベの実が見られるなんて、たまらなく羨ましく思います。
ぼくは、植物図鑑でしか見た事がありませんが(大笑)、どちらも紫色ですよね??
母方祖母にアケビの食感を訊いてみた事がありましたが、「バナナみたいだよ」との話でしたので、秋が楽しみなところですね。
後、2週間ぐらいするとセミの大活動時期となりますが、こちらはマンションの外壁にとまって鳴くセミの姿を毎夏目撃して、なんとも言えない違和感を覚える次第です。
やはり、セミは自然の中でが1番だと思います。命を惜しむ、この夏
夏が好き
私は一月生まれの山陰地方育ちで、寒さには強いはずだけれど、昔から冷え性で、
冬に豆炭のアンカで何度も火傷をした経験の持ち主である。子供の頃にはしもや
けに悩まされて、一緒に暮らしていた祖母にしもやけの特効薬だと言われ、夏の
暑い日に焼けた庭石に手をくっつけて、その効き目を願ったものだった。そのし
もやけはいつの間に悩まされなくなったけれど、冷え性で寒さ嫌いは年々耐えが
たくなってきた。
けれど、今年の猛暑続きのせいで、「熱中症の恐怖」に悩まされると、単に
「夏が好き」などと呑気なことを言っておれなくなった。我が身の水分不足を
心配するあまり、テーブルの上に五百ミリリットルのペットボトルを二本用意し
ておいて、一日のノルマを果たさねばと神経をとがらせている。寝ていても水不
足が気になって枕元に置いている水を飲むのを義務づけている。
「夏が好き」などと断言していた私に対する自然界からの忠告なのかしらと恨
めしくもなっている。
人間も自然と共に生きているのだから、「暑さ寒さも彼岸まで」となすがまま
に四季を暮らしていくしかないのかも知れない。へそまがりのわが「夏、雑感」
真っ先に映像から消される羽目となる。なぜなら、インタービュアーの意図は、「暑い、暑い!」、できれば「これまで初めて、こらえきれないほど暑いです!」と言って、欲しいのである。だから私は、こんな街頭インタービュー光景は、メディアの手前みその夏の風物詩として、共感することなく眺めている。自然界のことは、人間があれこれと詮索(せんさく)するまでもなく、時の流れに身をまかすことこそ便法である。どんなに暑い夏でも時が過ぎれば、「もう、夏が終わるのか! いやだな…」と、思うほどに早く秋風が吹いてくる。すると人間は、「ゆく夏を惜しむ…」という、これまた身勝手な詩的感情を露わにする。このところ道路を掃いていると、あちこちに楕円形の青い実が転がっている。たちまち、それらを指先で拾い上げる。落ち葉と一緒にそれらを金属の塵取りに、情なく掃き入れるには忍び難いからである。秋になればこの実は、木通(アケビ)、それとも郁子(ムベ、ウベ)のどちらに、姿を変えるであろうか? と、思いを浮かべる。私はひととき郷愁に浸り、やがては秋の山の楽しみの一つとなる。いまだ夏の入り口にあって秋へ先駆けるのは、確かに気が早いところではある。秋は自然薯や山栗、山柿が生り、そして里には、総じて実りの秋と果物の秋が訪れる。夏がどんなに暑くても、日本列島には四季の恵みがある。だから、いっときの暑さなど、嘆くまい。七月三日(日曜日)、久しぶりに二度寝にありつけて気分が良いせいか、暑い夏礼賛はもとより、気が早く秋の季節へ思いを馳せている。へそ曲がりのわが、消夏のしかたの一つかもしれない。一瞬忘れかけていたけれど秋は、地震の頻発に加えて、台風シーズンたけなわである。だからと言って私は、もとより自然界の営みに恨みつらみはない。いや実際にはそれも、地震さえなければという、限定付きではある。朝日の輝きのない夜明けにあって、私は早やちょっぴり秋の気配を感じている。案外、「短い夏を惜しむ」ようになるかもしれない。そうだと困るなあー、私は夏好きである。もちろん、冬に比べてのことだけれど…、それでもやはり短い夏は、真っ平御免被りたいものである。人間には総じて、空威張(からいば)りや負け惜しみはつきものである。とりわけ私は、その性癖一入(ひとしお)なのであろう。挙句、この文章は、へそまがりのわが「夏、雑感」である。実のない文章で、早起きの暇はつぶれている